記事一覧

生きる意味と食べる楽しみ

2014年4月21日

先日、健康問題が不安視されていたある知人の近況を人づてに聞いた。
どうやらドクターストップにより食べる楽しみを失ってしまったらしい。
それを聞いたとき、食べる楽しみが奪われるなんて自分だったら死んじゃう! ……なんて思わず言ってしまったけども、冷静に考えてみるとまあそんな楽しみがないならないで意外と人生楽しめるんじゃないのかな、とも思ってみたり。手放すには惜しいけど、いざ手放しちゃったらそれはそれで諦めがつくというか。実際どうなのか分からないけども。
さて、いまの私にとって食べる楽しみとは人生の楽しみの九割九分を占めるといっても過言ではなく、毎日毎日あれが食べたいこれが食べたいなどと考えながら、わりと好きなものを好きなように食べて暮らしている。最近はちょっと健康に気を遣うようになってきたけど、それでも所与の条件でいかに美味しくするかということに知恵の絞り甲斐がある。
そんな私がもしドクターストップで限られたものしか食べられなくなったら、たぶんしばらく生きる意味を無くすだろう。食べたい物を食べられないのは生き地獄だ。自分が食べられない事実はまだいいとして、目の前で普通の人が自分の食べられないものを普通に食ってる姿を見せられるのが地獄だ。そんなものを見せられて正気でいる自信がない。睨み付け、罵倒し、飛びかかり、その食っている皿を放り投げ、叩きつけ、顔中ボコボコにしても足りない。食っている姿が見えずとも匂いだけで喉をかきむしり奇声を上げて気絶するだろう。
さらにテレビ、ラジオ、雑誌、インターネット、メディアは食べ物飲み物の広告だらけだ。街中の自動販売機、パン屋、スーパー、居酒屋、ラーメンの屋台、すべてのものが悪魔に見えるに違いない。四六時中そんな悪魔に囲まれているというのは想像しただけで頭がおかしくなる。アポロに乗って前世紀のチューブ型宇宙食しかない世界にでもいけば多少はマシかもしれない。
とは言うものの、ドクターストップがかかった以上は命を縮めてまで食べたいものを食べたいとは思わない。私だって命が惜しい。長期的に(生活習慣病などで)命を縮めるならまだしも、医者が今すぐ止めろというのを無視するほど馬鹿ではない。先日、健康上の理由で一時的に禁酒してみた。初めのうちは楽しみが奪われるというストレスがあったものの、しばらくするとその状況にも慣れ、回避の仕方やストレスの緩和策なども身につくようになった。飲酒と飲食では必要度合いがまったく異なるが、楽しみという意味ではおそらく同様に慣れていくのかもしれない。
医者を必要としない程度に健康でありたいものです。

アルベルトおじさんの恐怖

2014年4月20日

アルベルトおじさんは人にいちゃもんを付けることを日課にしている。
アルベルトおじさんは不思議な存在で、どこからともなく現れる。たとえば学術的な会議に現れる。アルベルトおじさんは主流派の意見を認めない。人の意見にあらゆる反例を見つけてくる。「地球は太陽の周りを回っている」なんていう誰もが認めている事実も、おじさんにかかれば「そんなものは事実ではない。私は認めない」となってしまう。アルベルトおじさんは時には孤独な存在だが、時には大勢の味方を連れてくることがある。「人類は猿から進化した」なんていう進化論も、宗教団体を呼んできて「そんなもの私は認めない」となってしまう。
学術的な会議のほか、アルベルトおじさんは政治の場にも現れる。たとえばある政策の実施可否について社会的な統計データを持ち出せば「それを覆すデータがある」とか「そのデータは意味をなさない」とか「私の経験的には…」とかいろいろといちゃもんをつける。またあるときは裁判所にも現れる。証拠として不十分とか、責任能力がないとか、立証する意味がないとか、いろいろ難癖をつけて人のいうことを認めようとしない。
ときには人々がアルベルトおじさんの言い分に耳を傾けることもある。アルベルトおじさんの主張したことが教科書に載ることもある。しかしその時はすでに別のおじさんが現れて、またいちゃもんをつける。
アルベルトおじさんは神出鬼没だ。アルベルトおじさんは世の中の多数の人から疎まれる存在だ。でも、アルベルトおじさんはへこたれない。そして、アルベルトおじさんは長い歴史の中で大きな貢献をしてきた。アルベルトおじさんが居ずに世の中は成り立たない。議論をかき回す存在がいなければ、人間の目というものは曇ったままだからだ。

オカルト理論に反論する大槻教授
オカルト理論に反論する大槻教授(画像はイメージです)

世の中には「事実」と「真実」があるとよく言われる。事実は主観的で相対的。真実は客観的で絶対的。しかし「真実」などというものはこの世のどこにも存在しない。アルベルトおじさんはそのことを私たちに分からせてくれる。
「地球は太陽の周りを回っている」という学説がある。というか、もはや教科書に載るほどの定説で、誰もがこの事実に同意し、これが事実であることを前提にして世の中は回っている。となると、この学説は「真実」だろうか。残念ながらそうではない。仮に、すべての人が一人残らずこの学説に同意したとしよう。そして、未来永劫、人類のいる限りすべての人がこの学説を事実だと認め、信じたとしよう。そうすれば、「真実」と言っていいかもしれない。なぜならすべての人間の持つすべての認識の中でこの学説は「真」になるからだ。
ところが、実際にはそんなことはあり得ない。誰もが頷ける事実だったとしても、いちゃもんを付ける人が一人でもいると、それは「ただの学説の一つ」になってしまう。対立する別の学説がある限り、学説は真実になることはない。そして、人類が2人以上いる限り、すべての人間の意見が一致することはない。どのような意見にも、アルベルトおじさんは反論してくる。対立する仮説を持ち出してくる。「それは事実ではない」と疑ってくる。
STAP細胞だってそうだ。その存在を示した論文に対して「本当かな?」と疑いの目を持った全世界のアルベルトおじさんたちが、実際に試してみて疑いを指摘している。
(加えて門外漢のアルベルトおじさんたちも、有ること無いこと挙げていちゃもんをつけているけども)
科学の進歩というのは、そういうことを繰り返して繰り返してここまでやってきた。つまり、ある説に対して別の説があることを認め、客観的に立証する方法を提供し、それに沿って矛盾のない説明ができれば、おおよそ「客観的に見て真実の可能性が高い」と判定する。ある説について対立する説を一切認めなければ、それは宗教になってしまう。
アルベルトおじさんは面倒な存在だ。しかし、アルベルトおじさんはたくさんの議論の足切りをしてくれる。盲目な私たちに新たな視点を与えてくれる。アルベルトおじさんの存在があるからこそ、ときには相手にする価値もないような意見や、たくさんの不毛な議論に身構えることができる。気にせず通り過ぎることができる。無駄な労力を使わなくてすむ。
そんなみんなの嫌われ者、アルベルトおじさん。
ありがとう。アルベルトおじさん。
そして、これからも永遠に。

おまじない信仰——癌、タバコ、放射線

2014年4月17日

空飛ぶスパゲティモンスター教(画像はイメージです)

「おまじない」は何のためにあるのだろうか。
それは心の安定を得るためにある。「おまじないしたから大丈夫」という気休めが人をほっとさせる。これは信仰の一種であり、「いたいのいたいのとんでいけ」は1秒でできるインスタント宗教といえる。また星座占いや血液型占いといったものも同様にインスタント宗教だ。古来から人類はそういった根拠に乏しい取り決めや思考ロジックを合理的な思考判断の中に取り入れて、自分の思考の範疇に収まらないものを一定のブラックボックスとして折り合いを付け、擬似的な安心を得てきた。
だからおまじないを信じているだとか信じていないだとかで宗教戦争をしても意味がなくて、誰もが程度の差こそあれ何かを信仰し、あるいは定常的な信仰を持たなくても危機に際しては何か超越的なものを空想し、論理的ではない考え方をする。もしも宗教やしきたり、ジンクスといった心の決めごとがない状態では、人間はいちいち見るもの聞くもの感じるものすべてに対して何らかの答えを得ようとして多大なコストを払わないといけない。そういったものをある程度のところでとどまらせるための、現実を深追いしすぎないための思考パッケージが「信仰」であり「気休め」であり「おまじない」である。
人は不安や恐怖がある限り「おまじない」を必要とする。そのために古来から宗教が作られ、祭りが催され、ビルには穴が空き、店先にはタヌキ像が置かれ、泉にはコインがたまり、風邪を引けばチキンスープを食べ、携帯ストラップ型の電磁波除去シートが売れまくる。お布施、お賽銭、縁起物の商品、手相診断、いろいろなところでおまじない産業とその市場を見ることができる。しかしこれは精神衛生の維持や生活習慣の維持のために存在しているもので、それに費やすべきコストというものは人によって程度がある。不治の病に冒された人にとってはそれに支払いたいと考えるコストは高額になり、死や病気とは縁遠い若年者にとっては少額になる。それは医療保険や生命保険のように、抱えているリスクによって増減する。
個人的には「この世の中はそういったコストを払う必要がない人にも過剰におまじないを売りつける傾向がある」という疑いを持っていて、アルカリイオン水とかナノイー理論とか、電磁波除去シートとかの怪しげなマイノリティな理論はできるだけ信用しないことにしている。かといって一律信用しないということもなくて、東洋医学や電磁波の健康被害、一部の発がん性が疑われる物質についてはリスクとコストを勘案して、マイノリティな理論であっても少し信用するところもある。そういった「どれを信用し、どれを信用しないか」の選択は個人の問題で、人に押しつけるべきではない。が、どうも世にはおまじない産業がはびこりすぎだと思っている。
信仰についてよく引き合いに出される新興宗教(ここでは特に70年代~80年代に社会問題となった最後発宗教のことを指す)が人生を陥れるというのは多分に問題だけれども、その一方で怪しげなマイノリティな理論が世の中にはびこって、必要の無い不安がばらまかれて、本来は心の安定にそれほどコストを払う必要がない大勢の人がコストを払うようになるというところが、社会全体としてみると地味に損失なのではないかと思う。
もしも死の不安に取り憑かれた人が財産の大部分を費やして壺や掛け軸を買おうとする時、そこには真っ当な理由がある。死の不安が目前に迫っているからだ。溺れる者は藁だって掴む。だけど、それほどでもないような地味な不安で、たとえばタバコ吸ってる人がトランス脂肪酸の心配をしたり、飲酒運転を平気でするような人が電磁波を心配をしたり、飛行機に躊躇なく乗るような人が放射線の心配をしたり、独身者が発がん性物質の心配をしたり、高齢者が住宅のアスベストの心配をしたりってのは何か違うと思う。それは別に心配してはいけないということじゃなくて、理屈に合った程度に心配しましょうよという話。そしてそれに結構なコストと時間を取られたり、極端な話ではそういう不安だけで家庭崩壊に至ったりしているところをみると本当バカなんじゃないのと思う。お前ら、程度があるだろと。
遺伝子組み換え作物に反対するデモの様子(画像はイメージです)
遺伝子組み換え作物に反対するデモの様子(画像はイメージです)

情報流通のコストが格段に下がったことで、一つの不安が多くの人に伝わり、増幅されたり、生活や思考に影響を与えるように変わってきた。そして今は不安が供給過剰になっている。原子力発電所から遠く離れている人も汚染の心配をするし、子供のいる人は児童連れ去りの心配をするし、国民の多くが年金の心配をする。不安を煽ればみんなテレビを見るし、本を買うし、ページビューも伸びるし、怪しげな団体にお金が集まるし、グッズが売れる。そうして見えないところで巨大産業が育っていく。いろんな産業や市場に分散して目立たないけれど、人の不安による需要で飯を食う人ってのはどんどん増える。それで経済が回るのはいいことだけれど、社会全体の幸福度の総量は格段に下がっていく。皆が幸福を感じられないまま金だけが回っていく。
おまじないはあくまでおまじないだ。それで難を逃れられるかもしれないが、逃れられないかもしれない。その難を逃れられたとしても、ほかの難が待っているし、自分がどういう理由で死ぬことになるのか誰にも分からない。タバコをやめようとした人が医者に通っている途中で交通事故で死ぬかもしれないし、気休めに飲んだ健康食品が寿命を縮ませるかもしれないし、うちの爺さんなんか初詣で健康祈願してその帰りに風邪こじらせて死んでしまった。そんなことを考えるときりがない。結局どうなるのか人間には分からない。不安はあくまで可能性に依るものでしかない。
ただ、結局どうなるのか分からなくても、自分が何を信じて何に恐怖すべきかというものは選択できる。人から与えられる恐怖ではなく、自分で選択した恐怖を気にするべきだ。……といってもいちいち自分で吟味して検証していたら人生なんてあっという間に終わってしまうので、リスクを頭に入れつつ恐怖する対象を絞って、適当に折り合いを付けて、なあなあで判断するしかない。そもそも人間が生きるメカニズムさえ完全には解明されていないのだから、自分というシステムが今日もどういうわけか正常に機能し続けているという時点で奇跡のようなものだ。あまり考えすぎないのがよいのだろう。必要のない恐怖を取捨選択するということが、情報の多いこの世の中で生きていく上で欠かせないことだ。
何に恐怖し、どのような不安の物差しを持つかは結局のところ自分でコントロールできる。私たちはわけのわからない恐怖にかまっている場合ではない。

水天宮前で讃岐うどん「谷や」

2013年12月10日

うどん Advent Calendar 2013 の 10日目。
http://www.adventar.org/calendars/195
香川から関東に来てから10年以上がたちます。
私はあまり県外で讃岐うどん店を積極的に開拓する派ではないのですけど、都内で知っているうどん屋の中で一番のお気に入りといえば、ここ「谷や」。
谷や 入口の様子
場所は水天宮のすぐそば。半蔵門線の水天宮前駅か、日比谷線の人形町駅が最寄りです。
店構えは上品で、価格帯も高め。
かけうどん並盛(一玉相当)550円。
高ぇ。
いやいや、この店の価値は天ぷらにあります。むしろ天ぷらがメインです。
うどんも美味しいですが、何より天ぷらです。
天ぷら屋さんが片手間で讃岐うどんやっていると個人的には解釈しています。
それくらい天ぷらが美味い。
うどんも天ぷらも出来上った瞬間から秒単位で味が落ちていく類のものですので、この店では作り置きはありません。
出てくるときは揚げたて熱々。
口のなかで熱さを噛みしめつつ、サクサクした食感があるうちにうどんと一緒にさっさと平らげるのが良いです。
天ぷらメニューはバリエーション豊富。定番のかき揚げ、ちくわ天、えび天はもちろん、かしわ天やじゃこ天もあります。
細かいことですが、メニュー名が「とり天」じゃなくて「かしわ天」なのが讃岐らしいですね。
今回は平日の朝11時過ぎ(開店直後)に行ったのですが、店内はもう3分の1ほどが埋まっていました。
カウンターで天ぷらつつきながらビール飲んでる方もいます。うらやましい。
谷や かけうどんとかしわ天とじゃこ天
注文したのはかしわ天のかけ(950円)+じゃこ天。
じゃこ天はトッピングメニュー一覧には存在してないのですが、店員さんに確認するとちゃんと単品注文できました。
じゃこ天が温かい状態で出てくるのが地味に嬉しい。
ちなみにかしわ天は5個が1皿で出てきますが、1個単位で注文もできます。(注文してから後悔…)
店の出入口付近ではうどんを打つ様子が見られるようになっています。
そこで丁度会計を済ませた客がうどんを打つお兄さんと会話しているのが聞こえてきました。
どうやらそのお客さんもお兄さんも香川の人の様子。
お客さん「そうですか、香川からこっち戻ってきてやってるんですか」
お兄さん「ええ、香川町の店で修行しまして。もり家って知ってます? かな泉系列の」

ええ知ってますとも。去年初めて行ったけど結構な行列店でしたし。
というかあそこかな泉系列だったんだ…。
かしわ天5個にじゃこ天1個は少し頼みすぎたかなと思ったのですが、私の胃袋には丁度良い感じで収まりました。質の悪い天ぷらのように妙に胃もたれすることもなし。
ちなみに追加料金なしで中盛(二玉相当)にもできます。私は天ぷらを楽しみたいのでいつも並盛ですけども。
サクサク天ぷらとうどん、両方食べたいときは是非ここに。
夜はデートとか身近な人の接待とかに使えそうな雰囲気です。

OGPでフェイスブックアビリティを改善する

2013年12月6日

UDCP Advent Calendar 2013 の 6日目。
http://www.adventar.org/calendars/233
先日書いたエントリがFacebookでシェアされたりイイネされたりしたのだけど、それを見て愕然。

なんぞこのドット絵みたいな関係ないアイコン…。
どうやらFacebookではリンクのサムネイルを付けようとするらしく、お節介にも自動で適当な画像を見つくろってサムネイルに仕立て上げるらしい。なのでサムネイルや説明画像がないようなエントリを書いてしまうと手近にある無関係な画像がこのように現れてしまうワケ。まったく大きなお世話ですね。

こっちはタイトルすら分からないURLだけ…。まるでフィッシングサイトみたいだ。
どうやらサムネイルすら自動で作れなかったらしい。
これを解決するにはFacebookがちゃんと解釈できるようにソースを仕込むしかない。ページのサムネイルやデスクリプションを定義できるオープングラフプロトコル(OGP)というものがあるので、それをMETAタグ内に指定する。OGPはFacebookに限らず他のSNSでも使われているらしい。
Facebookでシェアされた時のテキスト・サムネイルの変更方法
http://html-five.jp/84/

私は面倒くさいのでWordpressプラグインに頼った。
Open Graph Pro – OGPに対応したメタタグを出力するWordPressプラグイン
http://netaone.com/wp/open-graph-pro/

たぶんこれで大丈夫なはず。
もはやAdvent Calendar関係ないけど、まあいいや。

生存報告

2013年12月5日

数分前、約半年ぶりにこの場所を更新しました。
書きたいことは山ほどあるけれど、うまく書けない。
ここに文章を書き始めてからそれはずっと変わりません。
…成長していないとも言いますけど。
ちょっと最近調子が悪くて、様々なもの(特にWeb)から距離を取るようにしていました。
心が静寂なことは尊いことです。
Twitterが更新されなくても、Facebookが更新されなくても、私はここでちゃんと生きておりますので。
気が向いたら、また、書きます。

同調圧力に負ける人たち

2013年12月4日

UDCP Advent Calendar 2013 の 4日目。
http://www.adventar.org/calendars/233
学校のクラスだったり職場だったり、あるいはスポーツクラブだったり連んでいる仲間集団だったり秘密結社だったり、大小さまざまなグループには雰囲気というか流れというものがある。それは目指す物が同じだったり置かれた環境が同じだったり趣味嗜好が似通っていたりすることで、メンバ同士の情報交換により個人個人の意志決定がだいたい似通ったところに行き着いたり、違う意見を持っていてもだんだん集団の流れのほうに誘導されたり、あるいはそれに逆らうと疎外感を感じて居心地の悪い思いをしたりすることがある。それは「同調圧力」ともいうべき奇妙なルールだ。
ちなみにWikipediaでは「同調圧力」という言葉には少数意見に対する脅迫などの過激な例も書かれているけれど、ここではもっともっと緩くてカジュアルなものとして取り上げたい。
例えるなら「隣の○○君がゲームボーイ持ってる。僕も欲しい」という競争意識に近いものだ。いわゆるソーシャルの力の一部でもある。
例として、とある集団「UDCP」の一部メンバ間(名は秘す)で“偶然にも”だいたい意志決定が同じような結論に至ったものの一覧を挙げる。買ったものや契約したサービスの共通点は私が知っている限りでもこれだけある。

メンバU メンバJ メンバY
ロードバイク
Dynabook SS
Macbook Air
(2011 US配列)

(2011 JIS配列/
2013 US配列)

(2011 US配列)
VAIO X
HP Proliant Microserver
iPhone
(3GS/4/5)

(3GS/4S/5)

(3GS/4S/5S)
iPad
(1/3/Air)

(1/2/Air)

(1)
Apple TV
Xperia SX
Nexus 7(2013)
(Wi-Fi)

(Wi-Fi)

(LTE)
Kindle
(DX/4)

(3/4/PW)

(2/Touch/PW)
Shureイヤホン
(SE535 SE)

(SE530)

(SE110)
Fitbit
(Ultra/Flex)

(Ultra)

(Ultra/Flex)
Withings
Scansnap
Philips hue
自転車練習用ローラー台
Garmin Edge
(500/810)

(500)

(500)
都心在住
(港区)

(港区)

(中央区)
高機能チェア
(アーロンチェア)

(バロンチェア)

(アーロンチェア)
フレッツ光契約
Amazonプライム契約
Jsports契約
アカデミーヒルズ契約
Civilization5
Simcity(2013)
Minecraft
艦これ

同調圧力に負けないような強い心を持ちたいものです。

Windows 8 を半月使ってみた

2013年7月16日

VAIO Pro 11を購入したので、Windows8を使い始めてみた。かつて発売前にRTM版を使ってここでボロクソに書いたような気もするけど、当時はVM上での操作だったし、今は多少Windows Storeのアプリ群も充実していると思われるので、多少は変わっているのかもしれない。
……と思ったら何も変わっていなかった。

UIの非統一性について

以前にも書いたけど、本当に「何がしたいのか分からないOS」という欠陥品。
Continue reading Windows 8 を半月使ってみた

VAIO Pro 11 を半月使ってみた

2013年7月15日


(手前がVAIO Pro 11、奥側がVAIO X)
VAIO Pro 11を使い始めて半月が経ったので、購入検討中の人のために感想や気になったことなどを書いてみる。

総評

大満足。
持ち歩きのサブノートとしては究極のクオリティ。これに対抗しうるのはコストパフォーマンス最強のMacbook Airしか思いつかない。あれが足りないこれが足りないといろいろ言われているけど、削れそうなところを片っ端から削ってここまで尖らせたのはすごい。こういうことができるのはソニーか工人舎か無名の中華企業くらいじゃないだろうか。
私の使い方に非常にマッチしていて、VAIO X以来3年間こいつを待っていた! と言ってもいいほどの完成度。ただし、細かい点でチューニング不足。

購入構成

ソニーストアで以下の構成で購入。
OS:Windows 8 Pro 64bit (+5000円)
液晶:タッチパネルなし
プロセッサ:Core i5-4200U
メモリ:4GB
SSD:128GB
キーボード:英字配列 (+5000円)
最小構成にOSとキーボードをカスタマイズして、合計138,800円。
ちなみに他に使っているノートPCはVAIO X(2009年発売)とMacbook Air 13″(Mid 2011)の2つ。家で使うのはMacbook Air。処理パワーが欲しいときやゲームする時はデスクトップPC。外で何かするときはVAIO X。今回はMacook Airの用途とVAIO Xの用途を統合できないかと思って購入してみた。
なお、私はノートPCについては「軽い」ということに異常な満足感を感じる人ですので、そのあたりを割り引いて読んでいただければ幸いかと。
Continue reading VAIO Pro 11 を半月使ってみた