おまじない信仰——癌、タバコ、放射線

2014年4月17日

空飛ぶスパゲティモンスター教(画像はイメージです)

「おまじない」は何のためにあるのだろうか。
それは心の安定を得るためにある。「おまじないしたから大丈夫」という気休めが人をほっとさせる。これは信仰の一種であり、「いたいのいたいのとんでいけ」は1秒でできるインスタント宗教といえる。また星座占いや血液型占いといったものも同様にインスタント宗教だ。古来から人類はそういった根拠に乏しい取り決めや思考ロジックを合理的な思考判断の中に取り入れて、自分の思考の範疇に収まらないものを一定のブラックボックスとして折り合いを付け、擬似的な安心を得てきた。
だからおまじないを信じているだとか信じていないだとかで宗教戦争をしても意味がなくて、誰もが程度の差こそあれ何かを信仰し、あるいは定常的な信仰を持たなくても危機に際しては何か超越的なものを空想し、論理的ではない考え方をする。もしも宗教やしきたり、ジンクスといった心の決めごとがない状態では、人間はいちいち見るもの聞くもの感じるものすべてに対して何らかの答えを得ようとして多大なコストを払わないといけない。そういったものをある程度のところでとどまらせるための、現実を深追いしすぎないための思考パッケージが「信仰」であり「気休め」であり「おまじない」である。
人は不安や恐怖がある限り「おまじない」を必要とする。そのために古来から宗教が作られ、祭りが催され、ビルには穴が空き、店先にはタヌキ像が置かれ、泉にはコインがたまり、風邪を引けばチキンスープを食べ、携帯ストラップ型の電磁波除去シートが売れまくる。お布施、お賽銭、縁起物の商品、手相診断、いろいろなところでおまじない産業とその市場を見ることができる。しかしこれは精神衛生の維持や生活習慣の維持のために存在しているもので、それに費やすべきコストというものは人によって程度がある。不治の病に冒された人にとってはそれに支払いたいと考えるコストは高額になり、死や病気とは縁遠い若年者にとっては少額になる。それは医療保険や生命保険のように、抱えているリスクによって増減する。
個人的には「この世の中はそういったコストを払う必要がない人にも過剰におまじないを売りつける傾向がある」という疑いを持っていて、アルカリイオン水とかナノイー理論とか、電磁波除去シートとかの怪しげなマイノリティな理論はできるだけ信用しないことにしている。かといって一律信用しないということもなくて、東洋医学や電磁波の健康被害、一部の発がん性が疑われる物質についてはリスクとコストを勘案して、マイノリティな理論であっても少し信用するところもある。そういった「どれを信用し、どれを信用しないか」の選択は個人の問題で、人に押しつけるべきではない。が、どうも世にはおまじない産業がはびこりすぎだと思っている。
信仰についてよく引き合いに出される新興宗教(ここでは特に70年代~80年代に社会問題となった最後発宗教のことを指す)が人生を陥れるというのは多分に問題だけれども、その一方で怪しげなマイノリティな理論が世の中にはびこって、必要の無い不安がばらまかれて、本来は心の安定にそれほどコストを払う必要がない大勢の人がコストを払うようになるというところが、社会全体としてみると地味に損失なのではないかと思う。
もしも死の不安に取り憑かれた人が財産の大部分を費やして壺や掛け軸を買おうとする時、そこには真っ当な理由がある。死の不安が目前に迫っているからだ。溺れる者は藁だって掴む。だけど、それほどでもないような地味な不安で、たとえばタバコ吸ってる人がトランス脂肪酸の心配をしたり、飲酒運転を平気でするような人が電磁波を心配をしたり、飛行機に躊躇なく乗るような人が放射線の心配をしたり、独身者が発がん性物質の心配をしたり、高齢者が住宅のアスベストの心配をしたりってのは何か違うと思う。それは別に心配してはいけないということじゃなくて、理屈に合った程度に心配しましょうよという話。そしてそれに結構なコストと時間を取られたり、極端な話ではそういう不安だけで家庭崩壊に至ったりしているところをみると本当バカなんじゃないのと思う。お前ら、程度があるだろと。
遺伝子組み換え作物に反対するデモの様子(画像はイメージです)
遺伝子組み換え作物に反対するデモの様子(画像はイメージです)

情報流通のコストが格段に下がったことで、一つの不安が多くの人に伝わり、増幅されたり、生活や思考に影響を与えるように変わってきた。そして今は不安が供給過剰になっている。原子力発電所から遠く離れている人も汚染の心配をするし、子供のいる人は児童連れ去りの心配をするし、国民の多くが年金の心配をする。不安を煽ればみんなテレビを見るし、本を買うし、ページビューも伸びるし、怪しげな団体にお金が集まるし、グッズが売れる。そうして見えないところで巨大産業が育っていく。いろんな産業や市場に分散して目立たないけれど、人の不安による需要で飯を食う人ってのはどんどん増える。それで経済が回るのはいいことだけれど、社会全体の幸福度の総量は格段に下がっていく。皆が幸福を感じられないまま金だけが回っていく。
おまじないはあくまでおまじないだ。それで難を逃れられるかもしれないが、逃れられないかもしれない。その難を逃れられたとしても、ほかの難が待っているし、自分がどういう理由で死ぬことになるのか誰にも分からない。タバコをやめようとした人が医者に通っている途中で交通事故で死ぬかもしれないし、気休めに飲んだ健康食品が寿命を縮ませるかもしれないし、うちの爺さんなんか初詣で健康祈願してその帰りに風邪こじらせて死んでしまった。そんなことを考えるときりがない。結局どうなるのか人間には分からない。不安はあくまで可能性に依るものでしかない。
ただ、結局どうなるのか分からなくても、自分が何を信じて何に恐怖すべきかというものは選択できる。人から与えられる恐怖ではなく、自分で選択した恐怖を気にするべきだ。……といってもいちいち自分で吟味して検証していたら人生なんてあっという間に終わってしまうので、リスクを頭に入れつつ恐怖する対象を絞って、適当に折り合いを付けて、なあなあで判断するしかない。そもそも人間が生きるメカニズムさえ完全には解明されていないのだから、自分というシステムが今日もどういうわけか正常に機能し続けているという時点で奇跡のようなものだ。あまり考えすぎないのがよいのだろう。必要のない恐怖を取捨選択するということが、情報の多いこの世の中で生きていく上で欠かせないことだ。
何に恐怖し、どのような不安の物差しを持つかは結局のところ自分でコントロールできる。私たちはわけのわからない恐怖にかまっている場合ではない。

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