大阪に転勤になりました

2011年7月22日

仕事の関係で大阪に引っ越すことになった。来月。
香川に18年、関東に9年、実に人生の3分の1を濃いめの味付けの文化圏で過ごした計算。うどんではなくそば、お好み焼きではなくもんじゃ焼き、砂糖と醤油ではなく割り下、丸餅ではなく角餅、ぜんざいではなく汁粉、りんご飴ではなく杏飴、ふぐではなくあんこう、60kHzではなく50kHz、長い時間をかけて東方の文化への違和感は少しずつ消えてきたのだった。(それでもやはり故郷のものが一番だけど)。
ここにきて引越が非常に面倒くさい。「蔵書を電子化するんだ!」と意気込んで買ったScanSnapは埃をかぶってるし、どうすんだよこの本の山…。おそらく引越重量の半分は蔵書になるだろう。読まない本を一気に処分しないといけない。
大阪に転勤になったと言うとたいてい「実家に近くなってよかったね」「電力を気にしなくてよくなったね」「放射能の心配がなくてよいね」の3つの反応のどれかが返ってくるけど、別にどれも私にとってインパクトは無い。まあ、実家に帰るための交通費は5分の1くらいになったので盆正月以外にも帰りやすいのは事実。
それよりデメリットとして、飲み友達やらが全員東京にいることと、かれらと一緒に今まで東京都内で開拓した飲食店データベースが無駄になってしまうことが惜しい。まあ、これを言ってしまうと「じゃあお前はこの先東京に骨を埋める気なのか」ということになるけど、そんな気はさらさらないので、いつか来るべき時がきてしまったんだなと思ってさらりと流すしかないのだろう。別にどこか特定の場所に執着する気はない。Amazonの荷物と光回線が届くならどこだっていいのだ。
引き続き大阪でも旨い店を開拓するので、友人知人の皆様は大阪に来た際にご一報くださいませ。

スーパーボリューム・ミー

2011年7月21日

ちょっとは静かにしておいてもらいたいものである。
静寂の価値 – タイム・コンサルタントの日誌から
http://brevis.exblog.jp/11378036/
私も同じことを考えていて、無駄に町中に音楽を垂れ流し続けるのはやめてほしいと思う。たとえばBGMを流さないなど、静寂が売りのカフェチェーンがあってもいいと思うし、飲食店でもBGMが届かないような席を選べるようにしても良いと思う。嫌煙権が認められた結果分煙が進んだように、嫌音権を認めて隔離スペースを選択できるようにしてほしい。
とは言うものの現状では逃げ場などないので、何とかして自衛するしかない。私は騒音のひどい場所を歩くときはイヤホンを付けている。音楽を聴きたくないときは何も流さないままイヤホンを付けている。カナル型イヤホンなので音楽を流さない場合でも耳栓として機能する。さすがに人混みの中を歩くときは人にぶつかりやすいのではずすよう配慮しているが。
それから、空港を使う際は有料待合室を愛用している。手続きを終えて一休みしたい時に次から次へとアナウンスが流れている中ではろくに落ち着けるわけがない。有料待合室では静かな音楽が流れているか、まったく流れていないので自分のペースでくつろぐことができる。空港以上にターミナル駅なんかもなかなかうるさいものだが、幸いなことに駅は待ち時間が少なくて済むのでこちらはあまり気にしていない。
もっとも嫌なのは商店街だ。高松市の某商店街のようにアーケード全体で音楽を流すのはやめてほしい。本当にやめてほしい。本当に本当にやめてほしい。パチンコ屋のような騒がしい存在はその場所から離れればどうということはないが、校内放送でもないのに同時放送用スピーカーまで用意して聞きたくもないアップテンポの音楽をエンドレスで垂れ流しているのは気が狂っている。いったい誰が得しているの? 誰かこの曲を聴きたいの? たとえば夏祭りが迫っているような時期に祭りの音楽を流したりするのなら話は分かる。でも年中おなじ音楽を聴かせる意味がどこにある? 最近、都内の商店街でも同様のことをやっていて(警察署からの防犯アナウンスのためらしいが、アナウンスの無い合間はずっと音楽を流している)愕然とした。
同じようにやかましくポップスを流しているハンバーガーショップなどもあるが、別にバーガーショップは落ち着くための場所ではなく、やかましくおしゃべりするための場所だから仕方がない。しかしコーヒーショップは落ち着くために入る人もいる。そんなところでポップスなんか流された日にはコーヒーカップを床に叩きつけて帰りたくなる。
家電量販店は音楽を流すのをやめてほしい。値段をアピールするのは良いし、それに拡声器を使っても別にかまわない。でもメロディを狂ったように流すのはやめてほしい。しかも洗脳されそうなチープな音楽をエンドレスで。買わせたいのは分かるがさすがに足が遠のいてしまう。秋葉原の町はもはやこうしたチープ音楽がアイデンティティのようになってしまったが、できれば魚市場的な騒がしさのほうが「電気街」という名前にマッチすると思う。リアルな人間の伴わない、ただの騒音の際限ないコピーは「にぎわい」なんかじゃない。
3月の地震の後、私はTVとラジオをつけっぱなしにしていた。このときに気が付いたことの一つが普段のCMの耳障りさだ。地震後しばらくの間は全国のテレビとラジオからCMが消えた。しばらくしてCMが再開されたが、いずれもクオリティの高いものだけが残った。推測だけど、考え無しにCMを垂れ流すようなスポンサーは自粛の波に揉まれ、配慮あるCMを作ることが出来るスポンサーとそれに応えられるクオリティのものだけが勇気を持ってCMを流すことができたんだと思う。このときばかりは音楽があっても控えめで、このときのテレビ・ラジオの雰囲気がずっと続いて欲しいと思った。
カフェではイヤホンに、酒場は個室に、テレビはミュートに。これが今できるささやかな自衛だ。

携帯電話、右から出すか左から出すか

2011年7月17日

携帯電話を3台持ち歩くようになってから半年ほど経つ。1つめは昔から使っているメインの携帯電話、2つめはiPhone、3つめは会社用のスマートフォン(Android)だ。
カバンを持たずに外出するときはこの3台がポケットの中に押し込められることになる。1つめと2つめは左ポケットに、3つめは右ポケットに。左側優先なのは携帯電話を左手で持つからだ。しかしモバイルSuicaで改札を通るときは1つめの携帯電話を左ポケットから取り出して右手に持ち替えてタッチするという面倒な作業を伴う。片手が塞がっている時などは非常に面倒だ。
携帯電話の使用シーンごとに左右のどちらが適しているかをまとめてみる。ちなみに私は右利き。

右側が適している

  • 駅の改札を通る
  • 自動販売機で買い物をする (コイン投入口の近くにIC読み取り口がある)
  • フィーチャーフォンでメールを打つ (サイドボタンは右手で操作しやすい)

左側が適している

  • 通話する (右手でペンを持てるよう)
  • レジで買い物をする (コンビニなど多くの場合レジが左側)
  • バスの改札を通る (都バスは先払い)

どちら側でもよい/両手を使う

  • スマートフォンでメールを打つ
  • 写真を撮る
  • 音楽を聴く

左右それぞれに適している場面があるので、こちらに統合できればよいというものではなさそうだ。
1台にまとめて首から下げればどちらにも対応できるけれど、ウォークマンみたいに格好よくは見えないだろうなあ。
そもそも数台持ち前提だとポケットの中に全部を入れるというのがなかなか困難で、まともに考えるとさっさと1台に集約しなさいという話になる。それができれば苦労はしない。メイン携帯と会社携帯はほぼ着信専用なので、iPhoneだけポケットに入れて残りはカバンに仕舞っておき、着信をiPhoneに転送すれば幸せになれるのかもしれない。

参考

@nifty:デイリーポータルZ:『ズボンのポケットの中に入れるか』大調査

WIRED復活によせて

2011年7月15日

WIRED 日本版 第1号表紙
アメリカのテクノロジー雑誌「WIRED」の日本版が復活したのでとても嬉しい。
今回の復活前に存在していたWIRED日本版は1994年創刊、1998年休刊。
1998年といえば当時私は15歳のハナタレ高校生で雑誌の存在などまったく知らなかったけど、ウェブ版のHotwired Japanにはかなりお世話になった。2000年から2003年頃にかけてのHotwiredはウェブサーバいじりとか、PHPの初歩の初歩みたいな解説記事が結構充実してて何度も読んだ覚えがある。もちろん本家雑誌の翻訳コンテンツも揃っていて、旧ZDnet Japan (現ITmedia)、CNET Japanjapan.internet.comImpress Watchなどと並んで一次ソースの仕入れ先として毎日メールマガジン(まだRSSを使った更新チェックは主流では無かった)をチェックしていた。
そのHotwiredが告知も無く突如更新を止め、しばらく廃墟となってからWired Visionとして再出発した。そして今回、Wired visionは雑誌名と同じWIRED.jpに名前を変えてそのコンテンツを引き継いだ。実に二度の方針変更を経て、WIREDは再び雑誌とセットのWIREDになったのだ。
新しめのテクノロジー好きな人にターゲットを据えた雑誌と言えば数年前に休刊してしまった「POPULAR SCIENCE JAPAN (PSJ) 」がある。どうもこのあたりのジャンルは雑誌のセグメントの中でも儲からないというか、不安定なところがあるようだ。一時期私は未来っぽいものを紹介するようなブログを書いていたのだが、雑誌の中ではネタの仕入れ先として決め手になるようなものがPSJ以外にあまり見あたらなかった。(2005年頃まではEngadget JapaneseGizmodo Japanも無かったのだ)。基本的には膨大にブックマークした技術系ニュースサイトや面白系通販サイトをチェックし、本屋に行って面白そうな雑誌を片っ端からチェックしていた。面白小物系はトレンド誌(DIMEとかGoodsPressとか)、新エネルギーとかエコロジー系アイテムはソトコト、WebサービスはWeb CreatorsやWeb Designing、掘り出し物探しはサイゾーとかpenとかブルータスとか日経キャラクターズ、Mac系雑誌。それでも一雑誌から拾えるのはせいぜい一号一ネタ程度なので、ネタ切れ時は日経産業新聞とか、大学の図書館で面白そうな研究分野なんかを漁っていた。これは余談。
別に新しモノの情報がこの雑誌一つで!みたいなことは思ってないけれど、ライトなテクノロジー系の定期刊行物が出ることでそういったクラスタの人たちがより多く集まってくるようになればなあと期待している。
さて、気になっているのはPSJが復刊するかどうかなんだけど、ネット上のストリームとかブログ記事とか見ている限りはまるっきり言及されている様子が無いので復活は望み薄なのだろう。かつてPSJが落ち目になって月刊から隔月刊に変わったあたり(2005年~2006年)はちょうどホリエモンが時代の寵児となっていた頃で、宇宙開発にからめて隔号に一回くらいはでかでかと取り上げられていた。どんだけ偏ってんだ!と思うけれど、日本国内でこの人以外に面白く宇宙開発のネタになってくれる人はいないんだろうなと思い、ちょっと寂しい気分になる。
ホリエモンは残念ながらこれから2年ほど収監なので、出所して再び宇宙開発に乗り出す頃にはそれを特集するPSJのような雑誌があってほしいし、WIREDもそれまでは続いていてほしいなと思う。
肝心の雑誌の内容について書いてないけど、まあいいや。

文字数制限があると書き始め易いという話

2011年7月14日

これから、昔と同じように短めの文章を定期的に書いていこうかと思う。
もともと私の文章を書きたい衝動のはけ口となっていたこのサイトだが、定期的に文章を書かなくなってもう5年くらいが経つ。肝心の文章を書きたいという衝動はだいたいTwitterで満たされているので、これはこれでなんとかなってる。(Twitterを始めたのは4年前のことだ)。でもなんだか書きたい放題に断片的なことを書くだけで終わってて、いまいちまとまりのない感じになっているので、そういうものをまとめるような場所も必要かなと思ってはいるのだ。
私にとって、ブログというところは自由なフィールドであると同時に書きづらい場所だ。なぜなら文字数制限がない。そして私は「ちゃんと書けるならまとまりのある文章を書きたい」とも思っている。だからブログで書こうとするととたんにハードルが上がる。書きたいことを積み上げようとしてゴールが遠くなる。書き進めない。ああでもない、こうでもない、そして完成しない。そして私のPCの中(と、Evernoteの中)には書きかけの文章の山がたまっていく。
ところがTwitterはどうしようもなく厳しい文字数制限がある。こうなるとまとまりのある文章など書くどころでは無い。与えられたフィールドの中をどう切り取るか、数少ない文章の中でどう意図通りの伝え方をするかに知恵が絞られる、あるいは、数少ない文章の中でいかにインパクトを与えるかというところが勝負になる。すると満足地点が低くなるので完成までのハードルが低い。適当な書き方でも「ま、いいか」でポストできる。(何しろ、一文の完成度を上げるより、低クオリティでも数多くポストする方が存在を認めてもらえるのだ)。だから、適度に文章を書き、適度に知恵を絞るだけでなんとなくそれっぽい意図が伝えられ、なんとなく文章を書きたい衝動が満たされてしまう。エッセイが書けなくても俳句なら作れる。そんな感じだ。
Twitterは文章を書くハードルが低いけれど、やっぱりどこかで考え方をきちんと構成しながら、まとまりのある文章を書いておかないとなあと思う。俳句は解釈の幅が広いので、適当に作った文章でもなんとなくそれっぽく見えてしまうし、勢いでRTされるし、Togetterにだって載ってしまう。白いキャンバスに適当にカラフルなペンキをぶちまけても芸術と言われれば芸術だし、表現の一つとして認められる。でも、そういうものだけじゃなくて、建築士が家を建てるように、NASAが宇宙船を設計するように、ドリフターズがアドリブを一切入れずに役をこなすように、よく練られた文章というのも道具の一つとして必要だと思う。そういう場所としてブログをもう少し重視していきたい。
手始めに、Twitter日本版の全角140字制限を5倍した700字、あるいは10倍した1400字を基準として定期的に文章を書けるようにしたい。
野口悠紀雄氏によれば、文章の長さを分類すると次の四種類になるらしい。

(1)パラグラフ――150字程度。
(2)通常「短文」といわれるもの――1,500字程度。
(3)本格的な論文などの「長文」――15,000字程度。
(4)「本」――150,000字程度。
(書籍『「超」文章法』より)

(1)のパラグラフの150字程度というのはTwitterの長さ(140字)と同程度だ。そして、SMSの長さ(140字)でもある。150字、1500字を書けるようになれば、そのうち15,000字も難なく書けるようになるんじゃないかと期待している。
かつて私が毎日ウェブ日記(ブログ文化が出てくる前の公開日記のことだ)を書いていた頃、だいたい700字程度になっていた。自分にとっては、たぶんこれから先もこの文章の単位が基準になっていくんだろう。だから、そのサイズか2倍のサイズあたりを目安にしてみようかと思う。
実際、めっきり書かなくなって以降で、何かの弾みで単発で書いたものもだいたいそれくらいだしね。

ともあれ、書きたいことのストックは山ほどあるから、しばらくはノリノリでキーボードを叩いていこう。
(1687字)