ピアノマンはどこへ行くのか(前編)

2005年6月10日
Piano man

X51.org提供)

イギリスのとある海岸で、びしょ濡れのスーツを着て彷徨っていた身元不明の男が保護された。保護当局が名前や連絡先を聞き出そうとしても、彼は何かに怯えているようで一言も喋らない。筆談をしようと紙とペンを渡すと彼はピアノの絵を描いた。病院のスタッフらが彼を病院のチャペルにあるピアノまで案内すると、彼はものすごい勢いでピアノを弾き始めた。彼は楽譜もなしにプロの技かと思うような腕前で数時間もの間ピアノを弾き続けた。

どこかの物語ではなく、ほんの2ヶ月ほど前に実際にあった出来事らしい。

先月の末頃、このニュースは全世界を駆け抜け、一時は日本のマスコミでも「ピアノマン」として騒がれた。ほどなく二本足で立つレッサーパンダ「風太君」騒動にすっかり押され数日で消えてしまったが、この事件はまだ解決したわけではない。もっとも、最近ではヤラセ疑惑が強いようで、現在公開中の映画「ラヴェンダーの咲く庭で」の内容に酷似していることから「プロモーションの一環」とも噂されている。

電車男のフィクション疑惑

電車男

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電車男は「フィクション」だという見方がある。そうかもしれない。しかし信じる信じないは別として、人々に感動を振りまいたことは確かだ。話題になって、書籍化されて、漫画化もされて、ドラマになって映画になった。フィクションか実話かで感動のスイッチが左右される人もいるだろうが、「たぶん実話」というあいまいなふれこみで結果的には感動を呼んだ。こうなったらフィクションか実話かなんてあまり関係なくなってくる。皆が信じた今、既成事実になったのだ。
私の場合、うすうすフィクションな気がしないでもないが実話であると“意識して”信じている。頭から「これ実話なんだすげー」と思ってると「実はウソでした」と言われたときに怒ってしまうかもしれないが、「まあ、信じてみようか」というスタンスなら笑ってすませられる。要するに、物語で感動することだけを重要視して、フィクション云々には執着してないのだ。こういう人はわりと多いのではないか。
実話と信じていた物語が実はフィクションだったと分かっても、別に自分が困るわけではない。何より誰も困らない。一部には「騙された!」と烈火のごとく怒る人もいるかもしれないが、感情を考えずに利害だけを見るとほとんど意味がない。だから、フィクションか実話かどうかなんて血眼になって検証するほどの労力はかけたくない。他にも気にすべき情報やニュースがいっぱいある。どうでもいいものは思考停止してしまった方が効率がいい。さあ次だ次行こう、そんな感じで電車男のフィクション疑惑は無視される。

電車男は誰なのか

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これは電車男の場合だけでなくて、2ちゃんねるのでの他のストーリーにも言える。そもそもツクリ(実話に見せかけたでっち上げ)が可能で、現実にそうした作り話(俗にネタや釣りと言われる)がたくさんあるのだからいちいち事実かどうか検証するのは馬鹿馬鹿しいし、本人がカミングアウトするまで結局の真相は分からない。もっと言えば2ちゃんねる以外の匿名掲示板にも言えるし、さらに「ノンフィクション」という書籍ジャンルでさえ信用できたものではない。
しかし2ちゃんねるの住人はスレの進行が実話であると信じるし、大量の応援者が付いて進行しているときにふと「ネタかな」と疑問に思ったとしても、流れを妨害してまでしつこく問いつめることはしない。それは住人の暗黙の了解であり、それに反することは「無粋」だとして嫌われるだろう。皆は状況そのものを楽しんでいて、ウソかどうかは問題にしていない。時には「踊らされる」ことも喜んで受け入れるのだ。匿名という立場で利害がからんでないからこそ許されるウソだと言える。
ネットでは事実は事実ではない。たとえウソであっても「皆が信じている」ものが事実になる。こういう見方をしてみると過去の歴史もそういえるかもしれない。時の権力者によってねつ造された歴史でさえ、皆が信じた時点で事実となる。実際に何が起こったのかはもう誰にも分からない。伝説や神話も、うすうす分かった上で皆が信じなければ成り立たない。

ピアノマンの存在が本当だろうとウソだろうと

以上より、ピアノマンが事実か作り話かはあまり関係ない。
たとえば、ピアノマンが実話であると仮定しよう。なんて素晴らしいニュースなのだろう。ご本人には申し訳ないかも知れないが、野次馬としては今後の展開が気になって仕方がない。

ラヴェンダーの咲く庭で

続いて、ピアノマンが作られたストーリーだと仮定しよう。たとえば前述の映画のプロモーションだった場合、これまた素晴らしいことだと思う。全世界の多くのマスメディアを相手にプロモーションが成功したのだ。少なくとも一日は取り上げてもらい、人々の中に印象づけられたのだ。広告を避ける日本の公営放送でさえ堂々と取り上げてくれた。映画に足を向かせるにはこれで十分なのではないだろうか。消費者としても「うまくやったなあ」と感嘆させられる。
どちらにしろ、隠された意図があろうがなかろうが何も問題ない。次にはどんな展開を見せるのだろうかとワクワクする。こうしたニュースがニュースソースに現れることは、残酷な現実のニュースよりかは歓迎される。
3つめに、ピアノマンが作られたストーリーだともう一つ仮定しよう。ここからが本題だと思って欲しい。
後編へ続く

参考

ピアノマン – 沈黙する謎の天才ピアニスト 英(X51.ORG)
「電車男マーケティング」――フィクションを流行らせて既成事実化する巧妙な戦略

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