携帯電話、右から出すか左から出すか

2011年7月17日

携帯電話を3台持ち歩くようになってから半年ほど経つ。1つめは昔から使っているメインの携帯電話、2つめはiPhone、3つめは会社用のスマートフォン(Android)だ。
カバンを持たずに外出するときはこの3台がポケットの中に押し込められることになる。1つめと2つめは左ポケットに、3つめは右ポケットに。左側優先なのは携帯電話を左手で持つからだ。しかしモバイルSuicaで改札を通るときは1つめの携帯電話を左ポケットから取り出して右手に持ち替えてタッチするという面倒な作業を伴う。片手が塞がっている時などは非常に面倒だ。
携帯電話の使用シーンごとに左右のどちらが適しているかをまとめてみる。ちなみに私は右利き。

右側が適している

  • 駅の改札を通る
  • 自動販売機で買い物をする (コイン投入口の近くにIC読み取り口がある)
  • フィーチャーフォンでメールを打つ (サイドボタンは右手で操作しやすい)

左側が適している

  • 通話する (右手でペンを持てるよう)
  • レジで買い物をする (コンビニなど多くの場合レジが左側)
  • バスの改札を通る (都バスは先払い)

どちら側でもよい/両手を使う

  • スマートフォンでメールを打つ
  • 写真を撮る
  • 音楽を聴く

左右それぞれに適している場面があるので、こちらに統合できればよいというものではなさそうだ。
1台にまとめて首から下げればどちらにも対応できるけれど、ウォークマンみたいに格好よくは見えないだろうなあ。
そもそも数台持ち前提だとポケットの中に全部を入れるというのがなかなか困難で、まともに考えるとさっさと1台に集約しなさいという話になる。それができれば苦労はしない。メイン携帯と会社携帯はほぼ着信専用なので、iPhoneだけポケットに入れて残りはカバンに仕舞っておき、着信をiPhoneに転送すれば幸せになれるのかもしれない。

参考

@nifty:デイリーポータルZ:『ズボンのポケットの中に入れるか』大調査

WIRED復活によせて

2011年7月15日

WIRED 日本版 第1号表紙
アメリカのテクノロジー雑誌「WIRED」の日本版が復活したのでとても嬉しい。
今回の復活前に存在していたWIRED日本版は1994年創刊、1998年休刊。
1998年といえば当時私は15歳のハナタレ高校生で雑誌の存在などまったく知らなかったけど、ウェブ版のHotwired Japanにはかなりお世話になった。2000年から2003年頃にかけてのHotwiredはウェブサーバいじりとか、PHPの初歩の初歩みたいな解説記事が結構充実してて何度も読んだ覚えがある。もちろん本家雑誌の翻訳コンテンツも揃っていて、旧ZDnet Japan (現ITmedia)、CNET Japanjapan.internet.comImpress Watchなどと並んで一次ソースの仕入れ先として毎日メールマガジン(まだRSSを使った更新チェックは主流では無かった)をチェックしていた。
そのHotwiredが告知も無く突如更新を止め、しばらく廃墟となってからWired Visionとして再出発した。そして今回、Wired visionは雑誌名と同じWIRED.jpに名前を変えてそのコンテンツを引き継いだ。実に二度の方針変更を経て、WIREDは再び雑誌とセットのWIREDになったのだ。
新しめのテクノロジー好きな人にターゲットを据えた雑誌と言えば数年前に休刊してしまった「POPULAR SCIENCE JAPAN (PSJ) 」がある。どうもこのあたりのジャンルは雑誌のセグメントの中でも儲からないというか、不安定なところがあるようだ。一時期私は未来っぽいものを紹介するようなブログを書いていたのだが、雑誌の中ではネタの仕入れ先として決め手になるようなものがPSJ以外にあまり見あたらなかった。(2005年頃まではEngadget JapaneseGizmodo Japanも無かったのだ)。基本的には膨大にブックマークした技術系ニュースサイトや面白系通販サイトをチェックし、本屋に行って面白そうな雑誌を片っ端からチェックしていた。面白小物系はトレンド誌(DIMEとかGoodsPressとか)、新エネルギーとかエコロジー系アイテムはソトコト、WebサービスはWeb CreatorsやWeb Designing、掘り出し物探しはサイゾーとかpenとかブルータスとか日経キャラクターズ、Mac系雑誌。それでも一雑誌から拾えるのはせいぜい一号一ネタ程度なので、ネタ切れ時は日経産業新聞とか、大学の図書館で面白そうな研究分野なんかを漁っていた。これは余談。
別に新しモノの情報がこの雑誌一つで!みたいなことは思ってないけれど、ライトなテクノロジー系の定期刊行物が出ることでそういったクラスタの人たちがより多く集まってくるようになればなあと期待している。
さて、気になっているのはPSJが復刊するかどうかなんだけど、ネット上のストリームとかブログ記事とか見ている限りはまるっきり言及されている様子が無いので復活は望み薄なのだろう。かつてPSJが落ち目になって月刊から隔月刊に変わったあたり(2005年~2006年)はちょうどホリエモンが時代の寵児となっていた頃で、宇宙開発にからめて隔号に一回くらいはでかでかと取り上げられていた。どんだけ偏ってんだ!と思うけれど、日本国内でこの人以外に面白く宇宙開発のネタになってくれる人はいないんだろうなと思い、ちょっと寂しい気分になる。
ホリエモンは残念ながらこれから2年ほど収監なので、出所して再び宇宙開発に乗り出す頃にはそれを特集するPSJのような雑誌があってほしいし、WIREDもそれまでは続いていてほしいなと思う。
肝心の雑誌の内容について書いてないけど、まあいいや。

文字数制限があると書き始め易いという話

2011年7月14日

これから、昔と同じように短めの文章を定期的に書いていこうかと思う。
もともと私の文章を書きたい衝動のはけ口となっていたこのサイトだが、定期的に文章を書かなくなってもう5年くらいが経つ。肝心の文章を書きたいという衝動はだいたいTwitterで満たされているので、これはこれでなんとかなってる。(Twitterを始めたのは4年前のことだ)。でもなんだか書きたい放題に断片的なことを書くだけで終わってて、いまいちまとまりのない感じになっているので、そういうものをまとめるような場所も必要かなと思ってはいるのだ。
私にとって、ブログというところは自由なフィールドであると同時に書きづらい場所だ。なぜなら文字数制限がない。そして私は「ちゃんと書けるならまとまりのある文章を書きたい」とも思っている。だからブログで書こうとするととたんにハードルが上がる。書きたいことを積み上げようとしてゴールが遠くなる。書き進めない。ああでもない、こうでもない、そして完成しない。そして私のPCの中(と、Evernoteの中)には書きかけの文章の山がたまっていく。
ところがTwitterはどうしようもなく厳しい文字数制限がある。こうなるとまとまりのある文章など書くどころでは無い。与えられたフィールドの中をどう切り取るか、数少ない文章の中でどう意図通りの伝え方をするかに知恵が絞られる、あるいは、数少ない文章の中でいかにインパクトを与えるかというところが勝負になる。すると満足地点が低くなるので完成までのハードルが低い。適当な書き方でも「ま、いいか」でポストできる。(何しろ、一文の完成度を上げるより、低クオリティでも数多くポストする方が存在を認めてもらえるのだ)。だから、適度に文章を書き、適度に知恵を絞るだけでなんとなくそれっぽい意図が伝えられ、なんとなく文章を書きたい衝動が満たされてしまう。エッセイが書けなくても俳句なら作れる。そんな感じだ。
Twitterは文章を書くハードルが低いけれど、やっぱりどこかで考え方をきちんと構成しながら、まとまりのある文章を書いておかないとなあと思う。俳句は解釈の幅が広いので、適当に作った文章でもなんとなくそれっぽく見えてしまうし、勢いでRTされるし、Togetterにだって載ってしまう。白いキャンバスに適当にカラフルなペンキをぶちまけても芸術と言われれば芸術だし、表現の一つとして認められる。でも、そういうものだけじゃなくて、建築士が家を建てるように、NASAが宇宙船を設計するように、ドリフターズがアドリブを一切入れずに役をこなすように、よく練られた文章というのも道具の一つとして必要だと思う。そういう場所としてブログをもう少し重視していきたい。
手始めに、Twitter日本版の全角140字制限を5倍した700字、あるいは10倍した1400字を基準として定期的に文章を書けるようにしたい。
野口悠紀雄氏によれば、文章の長さを分類すると次の四種類になるらしい。

(1)パラグラフ――150字程度。
(2)通常「短文」といわれるもの――1,500字程度。
(3)本格的な論文などの「長文」――15,000字程度。
(4)「本」――150,000字程度。
(書籍『「超」文章法』より)

(1)のパラグラフの150字程度というのはTwitterの長さ(140字)と同程度だ。そして、SMSの長さ(140字)でもある。150字、1500字を書けるようになれば、そのうち15,000字も難なく書けるようになるんじゃないかと期待している。
かつて私が毎日ウェブ日記(ブログ文化が出てくる前の公開日記のことだ)を書いていた頃、だいたい700字程度になっていた。自分にとっては、たぶんこれから先もこの文章の単位が基準になっていくんだろう。だから、そのサイズか2倍のサイズあたりを目安にしてみようかと思う。
実際、めっきり書かなくなって以降で、何かの弾みで単発で書いたものもだいたいそれくらいだしね。

ともあれ、書きたいことのストックは山ほどあるから、しばらくはノリノリでキーボードを叩いていこう。
(1687字)

生徒会の権力はなぜ強いのか

2009年8月2日

「どうしてそんなに・・・人間以外の存在にこだわるんだ?」
そっちの方が、おもしろいじゃないの!

(涼宮ハルヒの憂鬱より)

マンガやアニメに出てくる生徒会の権力はたいてい強い。それは疑問を挟む余地もなく「その方が面白いから」設定されたファンタジー世界の「お約束」である。校長がその立場に見合わないぐらいに寛容で温厚なのも「お約束」である。それと対比して教頭が厳格で怒りっぽいのも、「お約束」である。「学園のアイドル」とかいう存在がいて、ファンクラブが熱烈に活動しているのも、「お約束」である。学期の変わり目でもないのに唐突に転校生がやって来るのも「お約束」である。購買のパン売り場がありえないくらい混んでいるのも「お約束」である。校舎の屋上が立ち入り禁止になっていないのも「お約束」である。
すべては「お約束」である。
…と言い切ってしまうのは簡単なのだが、どうしてそっちの方が面白いのか冷静に考えてみることにする。まず、学園モノ(アニメとかマンガとかゲームとかでそういうシチュエーションがあるものの総称)に登場するエピソードのバリエーションが限られているところに発端がある。そもそも学園モノというのは読者やプレイヤーのノスタルジーを呼び起こさせて高校生活や中学生活を追体験させるファンタジーと言えるので、読者やプレイヤーが実体験として経験した(or 経験しないまでも想像可能な範囲の)要素でないと物語のエッセンスにすることができない。学園祭、スポーツ大会、夏休み、試験、告白イベント、七不思議の噂、甲子園にほど遠い野球部、学校に犬が乱入する、クラスメートに大金持ちがいる…などなど。というわけで、生徒会もその一つに上がってくる。
次に、その生徒会がなぜ権力を持つことになるのか。簡単に言うと、話を動かしやすいからだ。たとえば「学園のアイドル」というお約束があるが、現実には男子生徒の何割かが一人の女子生徒に心奪われるようなことなど起こりえない。それでもこのお約束があるのは、そのキャラクターに全体を動かせるような力を持たせたいからだ。現実だと、学校というコミュニティの中で一人一人の存在感はほぼ変わらない。たとえば生徒Aの存在感を1とすると、生徒Bは1.1、生徒Cは0.9、という具合だ。しかし、ファンタジー世界では存在感に格差を付けなければ特定のキャラクターに焦点を当てることができない。生徒Aが1に対して、生徒Bを500くらいにしないといけない。そのため、「その他大勢」が「誰か一人」に注目している必要があるのだ。「学園のアイドル」はそうして作られる。そして、生徒会も同じことだ。権力を持っていることで、「その他大勢」は注目する。「その他大勢」を好き勝手に動員させることもできるし、学内イベントを都合のいいように書き換えることだってできる。
ちょっと話はそれるが、実際のところ中学や高校の生徒会選挙なんてただの人気投票でしかない。
…と書くと、まるで人気投票で選ぶのが悪いことのように思えるが、実際はそうではない。生徒会選挙は大いに人気投票でやるべきだと思う。つまり、生徒会選挙は公約ではなくて人柄で選ぶべきだと思う。公約を山ほど掲げて選ばれた生徒会長がいたとしても、実現できなければ意味がない。どうせ生徒会選挙レベルの公約など実現しないのだから。人気投票で選ばれた生徒会長はとりあえず大多数の支持を受けているので、ある程度の範囲なら「あいつが言うならしょうがないか」で済ませることができる。だいたいの場合、生徒会は教師がうまく校内をまとめるための手駒にすぎないのだから、人気投票でカリスマ性のある生徒をトップで立てておいて、生徒会長の口からものを言わせた方がうまくいくのだ。教師のためにも、生徒のためにも。
以上より、比較的権力を持っている生徒会≒実行力のある生徒会≒支持される生徒会、ということになるので、ファンタジー世界に登場する生徒会はある意味理想の姿ではないかと思う。まあ、本当に傍若無人な設定の生徒会もあるけれど。やつら…どうやって選ばれたんだ?
もし、主人公が生徒会長で学校を好き勝手やりたい放題、というマンガやゲームがあったら情報求む。新ジャンル「生徒会強権萌え」を作るので。

草間弥生を表舞台に出してしまった罪

2009年7月25日

草間弥生が普通に世間に受け入れられているのを見ておどろいたのだった。
鮮やかなピンクやブルーの水玉模様。それで作品のすべてを覆い尽くしてしまう芸術家、草間弥生はかなりクセのある存在だ。一時インターネットで爆発的に流行した「蓮コラ」のような感染力のある作風で見るものすべてを呑みこんでしまう。水玉。水玉。そして水玉。作品だけでなくて、本人も一度見たら忘れられないぐらいのインパクトがある。派手に染めた髪の毛と水玉模様の衣装と、そして何より、岡本太郎のようにこちらを凝視してくる目線。まさに芸術家は芸人であって、彼ら自身も芸術のうちで芸のうちだと分からせてくれるお手本のような存在だ。
Kusama Yayoi
そんな草間弥生がデザインした携帯電話が出ると聞いたときはコーヒーを吹き上げてしまった。たとえではなく、リアルの話で。そして実物を見た。想像通りだ。水玉模様だ。まるで悪夢だ。
見れば見るほど気分が悪くなる痛快なデザインでたいへんよろしい。不健康そうなツブツブとイボイボは、指先で携帯電話に触れるのを想像しただけで寒気がしてくる。うん、とても味わい深い。色彩も鮮やかで、発売する携帯電話会社のカラーによく似合っている。こうして他人事として見ると、なかなかに面白い話題として楽しめる。しかし一方で、ひとつの言葉が頭をよぎる。
「誰か止める人はいなかったのか」
草間弥生を、ではなく、携帯電話会社の企画担当者のことだ。大きなお世話だが、私には気になって気になって仕方がない。売れるかといえば、売れないだろう。となると、パフォーマンスの一環だろうか。しかし、この携帯電話によってブランドイメージが上がるかと言うと、とてもそうは思えない。「気持ち悪いデザインの携帯電話を出したふざけた会社」というイメージがついて終わるだろう。株主総会で「いったい何を考えているんだ」と質問が飛ぶだろう。きっと飛ぶに違いない。私が株主だったら言う。
前衛芸術は万人受けするものではない。裏返せば、好きな人だけが好きということだけれど、好きな人でさえも四六時中接していられるようなものではない。前衛芸術は見ているだけで体力を使う。感じたり、触れたりしているだけで体力を搾り取られてしまうものなのだ。万人受けしないということは、それだけ人からエネルギーを吸い取るだけの力を持っているということだ。そんなものを四六時中身につけておくものと組み合わせてしまう。その発想は、すごい。とても私には真似できない。そして、そういう人とはできれば一生関わりたくない。
それはさておき、これだけクセのある作品をメディアに登場させて、さも当たり前のように企業プロモーションに取り込んでしまっているのが不思議で仕方がない。草間弥生って、表舞台に登場させてはいけない人なんじゃないの。だって、テレビでいきなりツブツブが映ったらびっくりするだろう。泣き出す子供もいると思う。たまに発作的に見たくなるぐらい軽度な草間弥生フリークの私でさえ、見る前には心の準備が必要だったりするのだから。
草間弥生が野放しにされているうちは、おちおち携帯カタログや雑誌、テレビも見られやしない。そういって私は、はじめからテレビを見る気がないのにテレビの電源をつけない理由をさがしている。草間弥生に栄光あれ。
http://iida.jp/products/art-editions/yayoi-kusama/dots-obsession/
(※心臓の弱い方が一日二回以上見る場合は医師のアドバイスを受けて下さい)