生きる意味と食べる楽しみ

2014年4月21日

先日、健康問題が不安視されていたある知人の近況を人づてに聞いた。
どうやらドクターストップにより食べる楽しみを失ってしまったらしい。
それを聞いたとき、食べる楽しみが奪われるなんて自分だったら死んじゃう! ……なんて思わず言ってしまったけども、冷静に考えてみるとまあそんな楽しみがないならないで意外と人生楽しめるんじゃないのかな、とも思ってみたり。手放すには惜しいけど、いざ手放しちゃったらそれはそれで諦めがつくというか。実際どうなのか分からないけども。
さて、いまの私にとって食べる楽しみとは人生の楽しみの九割九分を占めるといっても過言ではなく、毎日毎日あれが食べたいこれが食べたいなどと考えながら、わりと好きなものを好きなように食べて暮らしている。最近はちょっと健康に気を遣うようになってきたけど、それでも所与の条件でいかに美味しくするかということに知恵の絞り甲斐がある。
そんな私がもしドクターストップで限られたものしか食べられなくなったら、たぶんしばらく生きる意味を無くすだろう。食べたい物を食べられないのは生き地獄だ。自分が食べられない事実はまだいいとして、目の前で普通の人が自分の食べられないものを普通に食ってる姿を見せられるのが地獄だ。そんなものを見せられて正気でいる自信がない。睨み付け、罵倒し、飛びかかり、その食っている皿を放り投げ、叩きつけ、顔中ボコボコにしても足りない。食っている姿が見えずとも匂いだけで喉をかきむしり奇声を上げて気絶するだろう。
さらにテレビ、ラジオ、雑誌、インターネット、メディアは食べ物飲み物の広告だらけだ。街中の自動販売機、パン屋、スーパー、居酒屋、ラーメンの屋台、すべてのものが悪魔に見えるに違いない。四六時中そんな悪魔に囲まれているというのは想像しただけで頭がおかしくなる。アポロに乗って前世紀のチューブ型宇宙食しかない世界にでもいけば多少はマシかもしれない。
とは言うものの、ドクターストップがかかった以上は命を縮めてまで食べたいものを食べたいとは思わない。私だって命が惜しい。長期的に(生活習慣病などで)命を縮めるならまだしも、医者が今すぐ止めろというのを無視するほど馬鹿ではない。先日、健康上の理由で一時的に禁酒してみた。初めのうちは楽しみが奪われるというストレスがあったものの、しばらくするとその状況にも慣れ、回避の仕方やストレスの緩和策なども身につくようになった。飲酒と飲食では必要度合いがまったく異なるが、楽しみという意味ではおそらく同様に慣れていくのかもしれない。
医者を必要としない程度に健康でありたいものです。

アルベルトおじさんの恐怖

2014年4月20日

アルベルトおじさんは人にいちゃもんを付けることを日課にしている。
アルベルトおじさんは不思議な存在で、どこからともなく現れる。たとえば学術的な会議に現れる。アルベルトおじさんは主流派の意見を認めない。人の意見にあらゆる反例を見つけてくる。「地球は太陽の周りを回っている」なんていう誰もが認めている事実も、おじさんにかかれば「そんなものは事実ではない。私は認めない」となってしまう。アルベルトおじさんは時には孤独な存在だが、時には大勢の味方を連れてくることがある。「人類は猿から進化した」なんていう進化論も、宗教団体を呼んできて「そんなもの私は認めない」となってしまう。
学術的な会議のほか、アルベルトおじさんは政治の場にも現れる。たとえばある政策の実施可否について社会的な統計データを持ち出せば「それを覆すデータがある」とか「そのデータは意味をなさない」とか「私の経験的には…」とかいろいろといちゃもんをつける。またあるときは裁判所にも現れる。証拠として不十分とか、責任能力がないとか、立証する意味がないとか、いろいろ難癖をつけて人のいうことを認めようとしない。
ときには人々がアルベルトおじさんの言い分に耳を傾けることもある。アルベルトおじさんの主張したことが教科書に載ることもある。しかしその時はすでに別のおじさんが現れて、またいちゃもんをつける。
アルベルトおじさんは神出鬼没だ。アルベルトおじさんは世の中の多数の人から疎まれる存在だ。でも、アルベルトおじさんはへこたれない。そして、アルベルトおじさんは長い歴史の中で大きな貢献をしてきた。アルベルトおじさんが居ずに世の中は成り立たない。議論をかき回す存在がいなければ、人間の目というものは曇ったままだからだ。

オカルト理論に反論する大槻教授
オカルト理論に反論する大槻教授(画像はイメージです)

世の中には「事実」と「真実」があるとよく言われる。事実は主観的で相対的。真実は客観的で絶対的。しかし「真実」などというものはこの世のどこにも存在しない。アルベルトおじさんはそのことを私たちに分からせてくれる。
「地球は太陽の周りを回っている」という学説がある。というか、もはや教科書に載るほどの定説で、誰もがこの事実に同意し、これが事実であることを前提にして世の中は回っている。となると、この学説は「真実」だろうか。残念ながらそうではない。仮に、すべての人が一人残らずこの学説に同意したとしよう。そして、未来永劫、人類のいる限りすべての人がこの学説を事実だと認め、信じたとしよう。そうすれば、「真実」と言っていいかもしれない。なぜならすべての人間の持つすべての認識の中でこの学説は「真」になるからだ。
ところが、実際にはそんなことはあり得ない。誰もが頷ける事実だったとしても、いちゃもんを付ける人が一人でもいると、それは「ただの学説の一つ」になってしまう。対立する別の学説がある限り、学説は真実になることはない。そして、人類が2人以上いる限り、すべての人間の意見が一致することはない。どのような意見にも、アルベルトおじさんは反論してくる。対立する仮説を持ち出してくる。「それは事実ではない」と疑ってくる。
STAP細胞だってそうだ。その存在を示した論文に対して「本当かな?」と疑いの目を持った全世界のアルベルトおじさんたちが、実際に試してみて疑いを指摘している。
(加えて門外漢のアルベルトおじさんたちも、有ること無いこと挙げていちゃもんをつけているけども)
科学の進歩というのは、そういうことを繰り返して繰り返してここまでやってきた。つまり、ある説に対して別の説があることを認め、客観的に立証する方法を提供し、それに沿って矛盾のない説明ができれば、おおよそ「客観的に見て真実の可能性が高い」と判定する。ある説について対立する説を一切認めなければ、それは宗教になってしまう。
アルベルトおじさんは面倒な存在だ。しかし、アルベルトおじさんはたくさんの議論の足切りをしてくれる。盲目な私たちに新たな視点を与えてくれる。アルベルトおじさんの存在があるからこそ、ときには相手にする価値もないような意見や、たくさんの不毛な議論に身構えることができる。気にせず通り過ぎることができる。無駄な労力を使わなくてすむ。
そんなみんなの嫌われ者、アルベルトおじさん。
ありがとう。アルベルトおじさん。
そして、これからも永遠に。

おまじない信仰——癌、タバコ、放射線

2014年4月17日

空飛ぶスパゲティモンスター教(画像はイメージです)

「おまじない」は何のためにあるのだろうか。
それは心の安定を得るためにある。「おまじないしたから大丈夫」という気休めが人をほっとさせる。これは信仰の一種であり、「いたいのいたいのとんでいけ」は1秒でできるインスタント宗教といえる。また星座占いや血液型占いといったものも同様にインスタント宗教だ。古来から人類はそういった根拠に乏しい取り決めや思考ロジックを合理的な思考判断の中に取り入れて、自分の思考の範疇に収まらないものを一定のブラックボックスとして折り合いを付け、擬似的な安心を得てきた。
だからおまじないを信じているだとか信じていないだとかで宗教戦争をしても意味がなくて、誰もが程度の差こそあれ何かを信仰し、あるいは定常的な信仰を持たなくても危機に際しては何か超越的なものを空想し、論理的ではない考え方をする。もしも宗教やしきたり、ジンクスといった心の決めごとがない状態では、人間はいちいち見るもの聞くもの感じるものすべてに対して何らかの答えを得ようとして多大なコストを払わないといけない。そういったものをある程度のところでとどまらせるための、現実を深追いしすぎないための思考パッケージが「信仰」であり「気休め」であり「おまじない」である。
人は不安や恐怖がある限り「おまじない」を必要とする。そのために古来から宗教が作られ、祭りが催され、ビルには穴が空き、店先にはタヌキ像が置かれ、泉にはコインがたまり、風邪を引けばチキンスープを食べ、携帯ストラップ型の電磁波除去シートが売れまくる。お布施、お賽銭、縁起物の商品、手相診断、いろいろなところでおまじない産業とその市場を見ることができる。しかしこれは精神衛生の維持や生活習慣の維持のために存在しているもので、それに費やすべきコストというものは人によって程度がある。不治の病に冒された人にとってはそれに支払いたいと考えるコストは高額になり、死や病気とは縁遠い若年者にとっては少額になる。それは医療保険や生命保険のように、抱えているリスクによって増減する。
個人的には「この世の中はそういったコストを払う必要がない人にも過剰におまじないを売りつける傾向がある」という疑いを持っていて、アルカリイオン水とかナノイー理論とか、電磁波除去シートとかの怪しげなマイノリティな理論はできるだけ信用しないことにしている。かといって一律信用しないということもなくて、東洋医学や電磁波の健康被害、一部の発がん性が疑われる物質についてはリスクとコストを勘案して、マイノリティな理論であっても少し信用するところもある。そういった「どれを信用し、どれを信用しないか」の選択は個人の問題で、人に押しつけるべきではない。が、どうも世にはおまじない産業がはびこりすぎだと思っている。
信仰についてよく引き合いに出される新興宗教(ここでは特に70年代~80年代に社会問題となった最後発宗教のことを指す)が人生を陥れるというのは多分に問題だけれども、その一方で怪しげなマイノリティな理論が世の中にはびこって、必要の無い不安がばらまかれて、本来は心の安定にそれほどコストを払う必要がない大勢の人がコストを払うようになるというところが、社会全体としてみると地味に損失なのではないかと思う。
もしも死の不安に取り憑かれた人が財産の大部分を費やして壺や掛け軸を買おうとする時、そこには真っ当な理由がある。死の不安が目前に迫っているからだ。溺れる者は藁だって掴む。だけど、それほどでもないような地味な不安で、たとえばタバコ吸ってる人がトランス脂肪酸の心配をしたり、飲酒運転を平気でするような人が電磁波を心配をしたり、飛行機に躊躇なく乗るような人が放射線の心配をしたり、独身者が発がん性物質の心配をしたり、高齢者が住宅のアスベストの心配をしたりってのは何か違うと思う。それは別に心配してはいけないということじゃなくて、理屈に合った程度に心配しましょうよという話。そしてそれに結構なコストと時間を取られたり、極端な話ではそういう不安だけで家庭崩壊に至ったりしているところをみると本当バカなんじゃないのと思う。お前ら、程度があるだろと。
遺伝子組み換え作物に反対するデモの様子(画像はイメージです)
遺伝子組み換え作物に反対するデモの様子(画像はイメージです)

情報流通のコストが格段に下がったことで、一つの不安が多くの人に伝わり、増幅されたり、生活や思考に影響を与えるように変わってきた。そして今は不安が供給過剰になっている。原子力発電所から遠く離れている人も汚染の心配をするし、子供のいる人は児童連れ去りの心配をするし、国民の多くが年金の心配をする。不安を煽ればみんなテレビを見るし、本を買うし、ページビューも伸びるし、怪しげな団体にお金が集まるし、グッズが売れる。そうして見えないところで巨大産業が育っていく。いろんな産業や市場に分散して目立たないけれど、人の不安による需要で飯を食う人ってのはどんどん増える。それで経済が回るのはいいことだけれど、社会全体の幸福度の総量は格段に下がっていく。皆が幸福を感じられないまま金だけが回っていく。
おまじないはあくまでおまじないだ。それで難を逃れられるかもしれないが、逃れられないかもしれない。その難を逃れられたとしても、ほかの難が待っているし、自分がどういう理由で死ぬことになるのか誰にも分からない。タバコをやめようとした人が医者に通っている途中で交通事故で死ぬかもしれないし、気休めに飲んだ健康食品が寿命を縮ませるかもしれないし、うちの爺さんなんか初詣で健康祈願してその帰りに風邪こじらせて死んでしまった。そんなことを考えるときりがない。結局どうなるのか人間には分からない。不安はあくまで可能性に依るものでしかない。
ただ、結局どうなるのか分からなくても、自分が何を信じて何に恐怖すべきかというものは選択できる。人から与えられる恐怖ではなく、自分で選択した恐怖を気にするべきだ。……といってもいちいち自分で吟味して検証していたら人生なんてあっという間に終わってしまうので、リスクを頭に入れつつ恐怖する対象を絞って、適当に折り合いを付けて、なあなあで判断するしかない。そもそも人間が生きるメカニズムさえ完全には解明されていないのだから、自分というシステムが今日もどういうわけか正常に機能し続けているという時点で奇跡のようなものだ。あまり考えすぎないのがよいのだろう。必要のない恐怖を取捨選択するということが、情報の多いこの世の中で生きていく上で欠かせないことだ。
何に恐怖し、どのような不安の物差しを持つかは結局のところ自分でコントロールできる。私たちはわけのわからない恐怖にかまっている場合ではない。

頭のいい人だけに見える“見えないもの”

2012年9月25日

頭のいい人が見ている世界
http://d.hatena.ne.jp/potato_gnocchi/20120922/p1
実例を挙げて「人によって世界の見え方が違う」ということを取り上げた話。これを読んで面白いな、と思った。
この内容を一言でいうと“頭のいい人”と呼ばれる生き物はそれを元に世界を補正しながら見ていて、起きていることの結果を予測できる精度が高いらしいということだ。
以前私は登大遊氏について書いたことがあるんだけど、彼はプログラムについて天才的な頭脳を持っていて、普通の人がプログラムを書くときにああだこうだと考えながら書くところをひょいっと無意識のように書いてしまう。これを私は「自転車に乗るように」と表現した。彼は普通の人が「めんどくさい」「ややこしい」と思っていることを脳内でルーチンワーク化して無意識下でできるようにしている。だから意識しなくても感覚に従うだけで一日何千行ものコードが書けてしまう。この無意識作業は自転車に乗ることに似ていて、どのようにやっているかを意識的に説明することができない。コードを書いた天才に「なぜここのコードはこうなのか」と試しに聞いてみよう。おそらく彼は一瞬言葉に詰まり「なぜって、こうしてこうしようとしたらこうなるだろ。自ずとこうなるんだよ」と抽象的に答える。我々の期待した答えは得られない。なぜならそのコードの多くの部分は無意識下の彼が勝手に書いたものだからだ。
(もしかしたらそういう天才でも、人に一度教えた経験があるなら流暢に答えてくれるかも知れない)
でも世界の見え方が違うというのは別にH橋大学卒とかT京大学卒とか登大遊氏とかに限った話じゃなくて、あらゆる人がレベルに合わせてそういう違いを持っているんだと思う。
ありふれた例を挙げるならさっき言った自転車に乗ることがそうだ。あなたが自転車に乗れるとして(乗れない人はゴメンナサイ)乗れない人から「あなたはなぜ自転車に乗れるのか。仕組みを教えて欲しい」と聞かれたらどう答える? おそらく「何となくだよ」「練習すればできるよ」「左右のバランスをうまく取るんだよ」みたいな抽象的なことしか言えない。それは自転車に乗る一連の動作をあなたが無意識下でやっているからだ。ほかに竹馬に乗ったり、スキーをしたり、キーボードをタッチタイプしたり、速読をしたり、地図を読んだり、写実的な絵を描いたり、踊りを踊ったりするのも同じことだ。もっと簡単なもの、たとえば左右の足で速く走るという単純な行動さえも説明が難しい。これらは論理的に考えてこなせるものではないし、仕組みを理解したからできるわけでもない(まず走るためには左足を蹴って重心を前に倒して、バランスを崩す前に右足を出して…と理解しながら走る子供がいるだろうか?)。こうした技術についてはよく「慣れの問題」という言葉が使われる。
世界の見え方の話に戻る。私の場合、この話のなかに出てくる「駅の混雑で等速直線運動をする前提で考える」というのは無意識でやっている。でも「電車の中ですぐ降りそうな人を見つける」というのはわりと頭で考えないとできない。このように人によってできるできないのレベルがあるし、得意不得意の違いもあるだろう。この話を読んで「有名大卒の人は頭がいいからそういうのが分かるんだ」と理解した人がいたらちょっと話を単純化しすぎで、自転車に乗れたり乗れなかったり、プログラミングができたりできなかったりするのと同じでできる人とできない人がいるというだけの話だ。
では件のエントリで出てきた無意識のテクニックを使っている人々は特殊な例かというと、そんなことはない。たぶん頭がいいと一般にいわれる人は無意識のテクニックを人より多くマスターしている傾向にあるような気がする。それはおそらくたくさんの知識が蓄積されたことで初めて手にできたものだろう。医学知識のある人は重い荷物をもつときにきっといちばん筋力負担の少ないフォームを取ろうとするだろう。流体力学の知識のある人は部屋の掃除をするときに床上に舞い上がるホコリをモデル化しながら掃除するだろう。化学の知識のある人は「混ぜるな危険」と書かれていなくても風呂場洗浄剤を混ぜることに抵抗を感じるだろう。武術の知識がある人は打撃を受けた人が次に取るだろう行動を予想して守りを固めるだろう。それらの知識を持っていない人はそういったことをしないし、知識を断片的にしか持っていない人はあえて意識をしない限りはそういった思考ができないだろう。知識をマスターし、それを使いこなそうと試み続けた人だけが無意識下での思考ができるのだ。
そうした人には世界が異なっているように見えているはずだ。具体的にいうと視界に映るものにはガイドが見え、見えないはずの視界にはモデル化された世界が映っているに違いない。たとえばあなたが難しい漢字を丁寧に書こうとするとき、まっすぐ書き進めるためのガイド線が見えたりすることはないだろうか。書き進める過程で次にペンを紙のどの位置に落とせばよいかの点が見えることはないだろうか。あるいは広い運動場にまっすぐ白線を引こうとするときや、知らない町で地図を片手に歩いているとき、脳内にガイド線や鳥瞰図が浮かんで視界にトレースされることはないだろうか。そろばんができる人は脳内でそろばんを動かしたりしてないだろうか。
上記で挙げたものはありふれた例だが、頭のいい人にも同じようにそういったものが見えているのだろう。等速直線運動をする前提の群衆はモデル化されて何秒後かの位置がこのあたりだと表示される。駅を降りるのが近い乗客はシグナルの強さに応じて確率の色分けがされる。部屋にあるホコリはモデル化された流体によってシミュレーションされながら見える。時刻表を見るだけでダイヤグラムの線図が見える。見るばかりじゃない。合奏曲のフルスコアを見るだけで音楽が聞こえてくる。チューナーを見なくても楽器の音がずれていることがわかる。ドラムの次に刻むべきタイミングがミリ秒単位でわかる。
できる人はこう言う。
「考えるな、感じるんだ」
視界は補正され、座標がガイドされ、モデル化された世界で行動予測をシミュレーションしている彼らはそう言うしかない。だが、それが見えない我々には「あいつ、すごいな!」としか言うことができない。その間には途方もない断絶がある。
それを「別の世界を見ている」と表現するのなら、我々は頭のいい人だろうがそうでない人だろうが関係なく全員別の世界を見ているのだろう。

数学教師が教えてくれた「問題を解く」ということ

2012年9月17日

高校の時の微積分(数学Ⅲ)の教師は、数式とその展開を黒板いっぱいに書いて「さあ、写してください」というものだった。そして全員の作業が終わると次の数式をまた黒板いっぱいに展開していき、最後まで解き終わると「さあ、写してください」。ずっとこれの繰り返しだった。問題によっては簡単な解説が入ったりするが、解説がないこともあった。
おそらくこれを見て「詰め込み教育」と思う人がいるだろう。私もそう思う。だけど私はこの教え方が好きだった。はじめてこの方法を見たとき私は衝撃を受け「そうか、数学は暗記科目なのか」と思った。そして事実そうだった。私は数学を丸暗記することで受験を乗り越えることができた。
これはあくまで高校数学の話で、実際には数学はすべてそのように丸覚えで事足りるものではない。高校数学(あるいは受験数学)では解く時間が限られているから、それをチートするために暗記が威力を発揮するというだけのことだ。大学に進んだ私は同じ手法で暗記を繰り返して失敗し、代数学や微積分学を再々履修するはめになった。そして最終的に、暗号理論や情報理論といった応用例を見た後にようやく基礎を理解した。(初めから応用とからめて教えてくれ!と当時の私は思ったものだ)
さて高校の話に戻る。
その数学教師は見るからにステロタイプな数学教師だった。例えるなら石神井先生(キッチョメン!石神井先生)とか森秋先生(それでも町は廻っている)のようなイメージだ。光るメガネ、冷静な眼差し、白い顔、ぴっちりズボンに入れたシャツ、淡々と区切るようにしゃべる癖、定規で測ったようなおじぎ、正確な時間行動、そして学習に対しての厳しさ。彼によって膨大な赤点答案が生み出され(クラス平均点が赤点以下ということもあった)、何度もの追試が行われ、その学校の数学力は守られていた。
「式を展開していけば必ず解けます」
あるとき、長い式展開を終えた後に先生は言った。
一見難しい数式も形を変えていけば辿り着く場所があると解説をした。そして続けた。
「どのような難しい問題も解けるまで諦めなければ、それは解けます」
それは数学について言ったのではなく、世の中全般について言ったのだと思う。
やがて大人になった私は様々な問題の解き方を知った。
実際には解けない問題や、解かない方がいい問題もあるので「問題との向き合い方」といった方がよいかもしれない。

  • 問題を解く
  • 問題を解き、一般化する
  • 問題を解かないですむ方法を見つける
  • 問題は解けないが、別の問題に移し替えて解く
  • 問題は解けないが、条件付きで解く
  • 問題は解けないが、将来解けた先のために別の問題を解いておく
  • 問題は解けないが、その問題を解くことについて価値が低いと評価する
  • 問題を一般化して、将来問題が解けたときの価値を高める
  • 問題が存在しないかのように隠す
  • 問題を無意味にする
  • 問題に関心を持たない

たとえば、山道の真ん中に大きな落石があって通れないとしよう。

  • 人を集めて人力で落石をどかす
    (問題を解く)
  • 重機を用意して落石をどかし、次からも重機が通れるように道を整備する
    (問題を解き、一般化する)
  • その道を通らなくてはいけない用事をキャンセルする
    (問題を解かないですむ方法を見つける)
  • 落石を迂回する山道を作る
    (問題は解けないが、別の問題に移し替えて解く)
  • 落石を半分土砂で埋め、身軽な人だけ乗り越えられるようにする
    (問題は解けないが、条件付きで解く)
  • 新たな落石がないように対策をする
    (問題は解けないが、将来解けた先のために別の問題を解いておく)
  • より安全な山道にするようにロビー活動を始める
    (問題を一般化して、将来問題が解けたときの価値を高める)
  • 山道を閉鎖する
    (問題が存在しないかのように隠す)
  • 落石を気にしなくていいようロープウェイを通す
    (問題を無意味にする)
  • すべてを諦める
    (問題に関心を持たない)

さしずめこのようなアプローチで解決を図ることになるだろう。
問題を解くべきか解かないでいるべきかで言えば、やはり解く方がいい。「分からない」は「分かった」にした方がいい。「できない」は「できる」にした方がいい。そんなことは分かっている。でも時間や予算や労力が限られているから、諦めることを含めた上記のオプションから適切なものを選択して、問題を「解けた」ことにするのだ。
数学教師の言った「解けない問題はない」という言葉はそれを理解するための出発点となった。今になって思えば高校数学の問題の中にはエレガントな解き方もあったし、力づくの解き方もあったし、いろいろなバリエーションがあった。しかしどのような方法であれ最後には答えがあった。暗記でやり過ごした私はもう解き方などすべて忘れてしまったが「方法を尽くせばそこに解がある」という哲学的とも宗教的ともいうべき思考はそこで培われ、私の考え方の基礎となった。
数学教師の話には続きがある。
「どのような難しい問題も解けるまで諦めなければ、それは解けます」
の後に、彼はこう続けた。
「私が今までそれで解けなかったものは、女性だけです」
クラス全員が爆笑した。彼は独身だった。
彼が「今まで解けなかった」といっているのは諦めたということなのか、それともまだ解いている途中のつもりだったのかはよく分からない。

新幹線ぴかちゅう

2011年11月7日
新幹線さくら
(ポケモン新幹線こと「スマイルエクスプレス」。本文とは無関係)

 
本日の雑談。
「知り合いに新幹線が好きな人がいてさ、娘の名前も新幹線のものにしてるんだよね」
「『ひかり』とか?」
「そう。長女が『のぞみ』で次女が『ひかり』。なんか狙いすぎだよね」
「三女が生まれたら『こだま』にするのかな?」
「それ名字じゃないか(笑)。はやりの名前ってことで『さくら』とか『みずほ』になると思う」
「なるほど」
「男の子だったら『はやぶさ』とか」
「なんだかヤンキーの息子みたいな名前だな」
「それにしても新幹線ってみんな人の名前みたいだから子供が何人生まれてもネタ切れの心配がなくていいな」
「みんな女の子みたいだよね。『こまち』『つばさ』『やまび子』…」
「『やまび子』はねえよ!『山彦』とかでいいんじゃないの」
「あとは『はやて』か。女の子への手出しが早そうだね」
「二重の意味でな」
「あと新幹線だと『あさひ』『とき』『あさま』『たにがわ』…」
「もはや名字じゃねーか! 子供の名前にそんなの付けられるかよ」
「あとは『ひかりレールスター』」
「どんな変わり者だよ!学校で『山崎ひかりレールスターさん』とか『吉田グランドひかりさん』とか出欠取られるの嫌だろ!」
「ミドルネームみたいな感じで格好良くない?」
「わかった。お前みたいなセンスの奴が子供に『ぴかちゅう』とか名付けるんだな」
「それは無いけど、ぴかちゅうという新幹線が出てきたらさっきの知り合いがきっと…」
「ねーよ」
話は変わりますけど。
某エロゲの登場人物名は新幹線の愛称から取られているんですが、でもどういうわけか主人公名だけ新幹線に関係ない名前だったんですね。ところがその名前が後になって新幹線愛称に採用され、はたして何の因果か働いているのか気になっているところです。

iPhone 4Sが欲しい携帯乞食の頭の中

2011年10月5日

調べて安くなるならいくらでも調べる、それが携帯乞食。
iPhone4Sが発表になった。10月14日から発売らしい。これが欲しい。私のソフトバンクiPhoneの更新月は9月~11月までだから、auから出るならその間に乗り換えないといけない。それができないならソフトバンクでiPhone4Sで使うことになる。それかソフトバンクで縛り無効化な契約に変えられるなら変えておきたいけど、everybodyキャンペーンとホワイトプラン改定でそれもできなかったはず。そもそもホワイトプラン基本料を払うのが馬鹿らしいので、またどこかからソフトバンクにMNPして10ヶ月間ホワイトプラン基本料無料にしたい。となるとドコモかイーモバイルあたりから回線を持ってきたい。しかし残念ながらMNPできる寝かし回線は現状使い切ってしまって持ち玉が無い。となると無理やりドコモで契約即解約してMNPすることになる。量販店店頭だと安いけど縛りありインセ付きしか売ってないからドコモショップに出向くことになるな。SIMのみ契約ができたはず。いや、それだとベーシックプランになるから最安でも月3780円になって、しかも新規契約事務手数料3150円がかかる。そうか2in1という手がある。私がいま持ってる機種はD705iμだから古いと思うけど…、えーと、2in1にギリギリ対応してた! やった! これなら最安プラン+同一名義オプションで月840円+事務手数料なし。これで契約して即auかソフトバンクにMNPだな。与信情報に傷が付くかもしれんけど他の回線契約はいくつか残してるから大丈夫なはず!根拠は無いけど。
そうすると既存iPhoneが死蔵になるけど、寝かしても月2300円位かかり続けてしまう。いい番号なので一旦イーモバイルにMNPして待避させるか。時代遅れのDual diamondで契約するとMNP2100円+初期費用100円+月580円だから2年間のトータルコスト16120円かー。2年後にソフトバンク入り直したとしても今と同じ条件だったらMNP使っても9800円引きだから割に合わないなー。ドコモの2in1にMNPしたら…そもそもMNPして2in1のBナンバーになんてできるんだろうか。できたとしても月840円での維持ならイーモバイルより高くなる。それならいっそauにMNPしてWindows Phoneで遊ぶか。しかしそうなると4回線を持ち歩くことになるから使用シーン的にありえない。値崩れしててMNP一括で12800円とはいえ出費がバカにならん。どうせWindows Phone買うならメインのドコモで買いたいし、おそらくそのうちドコモから出て機種変更することになるだろう。じゃあ既存のソフトバンク回線はめでたく解約かな。
なんかもろもろ面倒になったんだけど、iPhone 4SのSIMフリー版っていくらになるのかな。1モデルで複数通信規格対応だとソフトバンクでもauでも使えるってことなのかな。たぶん高いんだろうけど。どっちにしろ電話なんて使ってないから簡単に移行できる。ドコモからWindows Phoneさえ出てくれればガラケーを捨て去ってWindows Phone+iPhone+Androidの素敵な3台体制ができるのにな。

参考

Desire HDを格安で入手する方法とお得な料金プランの紹介! – MNPを活用した乞食法
のりかえ割・「ただとも」プログラム | ソフトバンクモバイル

リアルタイム大阪

2011年8月13日

大阪に引っ越してからもう一週間になります。おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。
大阪こわい
なんというか、まるで外国。ガラの悪い人の遭遇率が異様に高い。見るからに危険そうな人が道を歩いているほか、路上にヤンキーファッションな人がたむろしたり、場所かまわずルンペンがいたり、若いにーちゃんが中学生みたいにはしゃいで取っ組み合いしてたり、おっちゃんが店に怒鳴り込んでたり、某大臣風に言えば「元気があってよろしい」的な異様な雰囲気。私的に言わせてもらうと「冗談じゃない」。引っ越してきた当日に地下鉄のドアを無理やり開ける技を見たときは恐怖した。あと、翌日には外で喧嘩が始まった。どうなってんのここ。治安はそんなに悪くない地域だと思うんだけどなあ。


大阪ややこしい
なんなのこの路線図の複雑さは。図が複雑なんじゃなくて、会社が入り組んでるあたりが複雑。東京の東側に住んでたらJRとメトロと都営と東武とTXくらいしか知らなくてよかったけど、大阪なんなの。阪急に阪神、京阪、JR、地下鉄、近鉄、南海…。しかもPiTaPaってそのへんですぐに買えるものじゃないのか。実態はクレジットカードなので作る気が失せた。代わりにプリペイドの磁気カードを使っている。
あと、タクシーの運転手が総じて無愛想。ブランドの付いてるタクシーなのに全員が個人タクシーみたいな感じ。でも適確に要求に応えてくれる。(東京だとこうはいかない)
大阪ぶっそう
都心にある会社に近い場所で探したらわりと人気のエリアに落ち着いた。住んでみて分かったことは女性多すぎ。うちのマンション、住人を10人近く見たけど全員女性。治安の良いところでオートロック付きで探すとこういう物件に行き着くんだろうなあ、という印象。ほかに、夜9時とか11時とかに駅から家に帰る道中、同じ方向に歩いているのが私以外全員若い女性(単身住まいで仕事帰りっぽい)、とかそういうこともちらほら。他に住みやすいとこないんかい。
でも外で喧嘩は起きるんよね。
大阪ガラ空き
つくば⇒東京で片道2時間をかけて通勤していたのはもう過去の話。今では片道20分。東京の通勤事情がどれだけ異常だったかというのが今ではよくわかる。通勤時間1時間はわりと遠い方(東京だと普通)。京都市内から通勤してる同僚が「えっ、なんでわざわざそんな遠いところ住んでんの?」と話題になっていたのが印象深かった。あと、通勤ラッシュの地下鉄に乗ったらガラガラで驚いた。こんなんで採算とれんの。
大阪たこ焼き
うちの近所はたこ焼き屋が多すぎなんだけど、これは観光客目当てのレベルには収まらないほどの数なので、やっぱり大阪はみんなたこ焼き食ってるんだなあと思った。だいたい一つの交差点で3つから4つは一度に見える。都心部のコンビニとか、高松市内の讃岐うどん屋密集ポイントとかと同じような感じ。お好み焼き屋も目立つけど、たこ焼き屋ほどのインパクトはない。でも弁当屋のメニューには必ずお好み焼きがある。
まいどおおきに
「まいど」「おおきに」はわりとよく聞く。香川に住んでたときは自営業やってた父が「まいど」と電話に出るときは取引先からの電話、くらいの感じにとらえていたんだが、見る限り本当に隅々まで商売する人が使っている(全員が使ってるわけではない)。うちに届けに来た佐川のにーちゃんも「まいどおおきに」と言っていた。「おおきに」も子供の頃からずっとじーちゃんばーちゃんの使う言葉だと思っていたが、商店街の個人商店とか飲食店で買い物するとだいたい言われる。

大阪に転勤になりました

2011年7月22日

仕事の関係で大阪に引っ越すことになった。来月。
香川に18年、関東に9年、実に人生の3分の1を濃いめの味付けの文化圏で過ごした計算。うどんではなくそば、お好み焼きではなくもんじゃ焼き、砂糖と醤油ではなく割り下、丸餅ではなく角餅、ぜんざいではなく汁粉、りんご飴ではなく杏飴、ふぐではなくあんこう、60kHzではなく50kHz、長い時間をかけて東方の文化への違和感は少しずつ消えてきたのだった。(それでもやはり故郷のものが一番だけど)。
ここにきて引越が非常に面倒くさい。「蔵書を電子化するんだ!」と意気込んで買ったScanSnapは埃をかぶってるし、どうすんだよこの本の山…。おそらく引越重量の半分は蔵書になるだろう。読まない本を一気に処分しないといけない。
大阪に転勤になったと言うとたいてい「実家に近くなってよかったね」「電力を気にしなくてよくなったね」「放射能の心配がなくてよいね」の3つの反応のどれかが返ってくるけど、別にどれも私にとってインパクトは無い。まあ、実家に帰るための交通費は5分の1くらいになったので盆正月以外にも帰りやすいのは事実。
それよりデメリットとして、飲み友達やらが全員東京にいることと、かれらと一緒に今まで東京都内で開拓した飲食店データベースが無駄になってしまうことが惜しい。まあ、これを言ってしまうと「じゃあお前はこの先東京に骨を埋める気なのか」ということになるけど、そんな気はさらさらないので、いつか来るべき時がきてしまったんだなと思ってさらりと流すしかないのだろう。別にどこか特定の場所に執着する気はない。Amazonの荷物と光回線が届くならどこだっていいのだ。
引き続き大阪でも旨い店を開拓するので、友人知人の皆様は大阪に来た際にご一報くださいませ。

スーパーボリューム・ミー

2011年7月21日

ちょっとは静かにしておいてもらいたいものである。
静寂の価値 – タイム・コンサルタントの日誌から
http://brevis.exblog.jp/11378036/
私も同じことを考えていて、無駄に町中に音楽を垂れ流し続けるのはやめてほしいと思う。たとえばBGMを流さないなど、静寂が売りのカフェチェーンがあってもいいと思うし、飲食店でもBGMが届かないような席を選べるようにしても良いと思う。嫌煙権が認められた結果分煙が進んだように、嫌音権を認めて隔離スペースを選択できるようにしてほしい。
とは言うものの現状では逃げ場などないので、何とかして自衛するしかない。私は騒音のひどい場所を歩くときはイヤホンを付けている。音楽を聴きたくないときは何も流さないままイヤホンを付けている。カナル型イヤホンなので音楽を流さない場合でも耳栓として機能する。さすがに人混みの中を歩くときは人にぶつかりやすいのではずすよう配慮しているが。
それから、空港を使う際は有料待合室を愛用している。手続きを終えて一休みしたい時に次から次へとアナウンスが流れている中ではろくに落ち着けるわけがない。有料待合室では静かな音楽が流れているか、まったく流れていないので自分のペースでくつろぐことができる。空港以上にターミナル駅なんかもなかなかうるさいものだが、幸いなことに駅は待ち時間が少なくて済むのでこちらはあまり気にしていない。
もっとも嫌なのは商店街だ。高松市の某商店街のようにアーケード全体で音楽を流すのはやめてほしい。本当にやめてほしい。本当に本当にやめてほしい。パチンコ屋のような騒がしい存在はその場所から離れればどうということはないが、校内放送でもないのに同時放送用スピーカーまで用意して聞きたくもないアップテンポの音楽をエンドレスで垂れ流しているのは気が狂っている。いったい誰が得しているの? 誰かこの曲を聴きたいの? たとえば夏祭りが迫っているような時期に祭りの音楽を流したりするのなら話は分かる。でも年中おなじ音楽を聴かせる意味がどこにある? 最近、都内の商店街でも同様のことをやっていて(警察署からの防犯アナウンスのためらしいが、アナウンスの無い合間はずっと音楽を流している)愕然とした。
同じようにやかましくポップスを流しているハンバーガーショップなどもあるが、別にバーガーショップは落ち着くための場所ではなく、やかましくおしゃべりするための場所だから仕方がない。しかしコーヒーショップは落ち着くために入る人もいる。そんなところでポップスなんか流された日にはコーヒーカップを床に叩きつけて帰りたくなる。
家電量販店は音楽を流すのをやめてほしい。値段をアピールするのは良いし、それに拡声器を使っても別にかまわない。でもメロディを狂ったように流すのはやめてほしい。しかも洗脳されそうなチープな音楽をエンドレスで。買わせたいのは分かるがさすがに足が遠のいてしまう。秋葉原の町はもはやこうしたチープ音楽がアイデンティティのようになってしまったが、できれば魚市場的な騒がしさのほうが「電気街」という名前にマッチすると思う。リアルな人間の伴わない、ただの騒音の際限ないコピーは「にぎわい」なんかじゃない。
3月の地震の後、私はTVとラジオをつけっぱなしにしていた。このときに気が付いたことの一つが普段のCMの耳障りさだ。地震後しばらくの間は全国のテレビとラジオからCMが消えた。しばらくしてCMが再開されたが、いずれもクオリティの高いものだけが残った。推測だけど、考え無しにCMを垂れ流すようなスポンサーは自粛の波に揉まれ、配慮あるCMを作ることが出来るスポンサーとそれに応えられるクオリティのものだけが勇気を持ってCMを流すことができたんだと思う。このときばかりは音楽があっても控えめで、このときのテレビ・ラジオの雰囲気がずっと続いて欲しいと思った。
カフェではイヤホンに、酒場は個室に、テレビはミュートに。これが今できるささやかな自衛だ。