涼宮ハルヒの憂鬱 ~あなたもSOS団、作りますか

2006年7月10日

ネット界隈でえらい騒ぎようだったテレビアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」が終了してしまった。ちなみに原作は一冊しか読んでません。
この話のあらすじを3つの台詞で説明すると、

「ただの人間に興味はありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」
(高校入学時の涼宮の自己紹介)
「教えるわ。SOS団の活動内容、それは宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶことよ!」
(涼宮が作った部活への勧誘文句)
「しかしこの数ヶ月ほど、明らかに人智を越えた力が涼宮さんから放たれたことは解っています。その結果は、もう言うまでもありませんね」
(自称超能力者・古泉の台詞)

てなわけで、不思議を求める涼宮の元に不思議の当事者たちが集まってきて(ただし涼宮本人はその事実を知らない)、当の涼宮自身も並の存在でないことが明らかになっていく、というお話。
ここでちょっと気になったのは、不思議を求める涼宮の動機。

「小学生の、六年生の時。家族みんなで野球を見に行ったのよ球場まで。あたしは野球なんか興味なかったけど。着いて驚いた。見渡す限り人だらけなのよ。野球場の向こうにいる米粒みたいな人間がびっしり蠢いているの。
日本の人間が残らずこの空間に集まっているんじゃないかと思った。でね、親父に聞いてみたのよ。ここにはいったいどれだけ人がいるんだって。満員だから五万人くらいだろうって親父は答えた。試合が終わって役まで行く道にも人が溢れかえっていたわ。
それを見て、あたしは愕然としたの。こんなにいっぱいの人間がいるように見えて、実はこんなの日本全体で言えばほんの一部に過ぎないんだって。
(中略)
それまであたしは自分がどこか特別な人間のように思ってた。家族といるのも楽しかったし、なにより自分の通う学校の自分のクラスは世界のどこよりも面白い人間が集まっていると思っていたのよ。でも、そうじゃないんだって、その時気付いた。
(中略)
夜、歯を磨いて寝るのも、朝起きて朝ご飯を食べるのも、どこにでもある、みんながみんなやってる普通の日常なんだと思うと、途端に何もかもがつまらなくなった。そして、世の中にこれだけ人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなく面白い人生を送っている人もいるんだ、 そうに違いないと思ったの。
それがあたしじゃないのは何故? 小学校を卒業するまで、あたしはずっとそんなことを考えてた。考えていたら思いついたわ。面白い事は待っててもやってこないんだってね。中学に入ったら、あたしは自分を変えてやろうと思った。
待ってるだけの女じゃない事を世界に訴えようと思ったの。実際あたしなりにそうしたつもり。でも、結局は何もなし。そうやって、あたしはいつの間にか高校生になってた。少しは何かが変わるかと思ってた」
(涼宮ハルヒの憂鬱 第6章より)


「自分は特別な人間に違いない」という感情と「自分は普通の人間に過ぎない」という感情。中学~高校の年頃だとこんな2つの感情がせめぎ合ってたりして「思春期」なんて乱暴なくくりでまとめられちゃったりするんだが、やっぱり大人になっても2つの感情は共存してたりするのね。みんなと同じということに安心しながら、些細なところで微妙に変えてないと落ち着かなかったりとか。たとえば着てるスーツは一緒なのに、ネクタイだけで個性出そうとしたり。
で、私自身そういうせめぎ合う2つの感情があるわけで、それは「可能性」と「無力感」のあいだを行ったり着たりする要因になってる。私たちの世代で陥りやすい例を挙げると「自分はクリエイティブで実力を持った人間なんだ! オンリーワンのビジネスモデルで起業して稼ぎまくってやるぜ!」という考えと、「だいたい成功してる人はこれぐらいの歳では注目されてる存在なんだよな。自分にはそんな片鱗ないし、自分ひとり食わせるだけぼちぼちやれればいいかぁ~」という考え。
要するに自意識過剰なわけですな。
そんなわけでいつもせめぎ合って均衡点にいるもんだから、いつまでたっても具体的に動けない。いっそのことSOS団でも作りますか?
結局のところ、その通り涼宮ハルヒはSOS団を作るだけの行動力があったわけだけど、この世にいるたくさんの「自分は特別なんだと思いこみたい普通の人」はそういう感情のはけ口をどこに持って行ってるんだろう? というのが素朴な疑問。
海外に行ったことのある人が口を揃えて言うんだけど「確立されているクラス社会は、お互いが幸せに生きている」らしい。一般労働者は「普通の人」として最低限自分の仕事に誇りを持っているし、特権階級は「特権を持っている人」として国の政治や経済を動かしている自覚がある。それはさぞかし「特別vs普通」の葛藤とは無縁なんだろうと思う。
下手に希望があって「実力があれば特権階級になれるんだよ」「実力がなければ普通の人なんだよ」「芸術家みたいなオンリーワンな職業もあるんだよ」なんて言葉が飛び交ってるこの国だからこそ、そんな葛藤が生まれたりするんじゃないのかな。それでみんな普通の人だとは思いたくないから、そのへんだましだまし生きてる、という構造。それはそれで素晴らしい社会だと私は思う。
まあ全員が全員「その気になれば自分だって世の中を動かせる!」「その気になればエキサイティングな人生を送れる」と気軽に思えるからこそ日本は日本ならではのモチベーションが保たれているんじゃないかな、と解釈したい。でも現実にはそうもいかなくて、そのへんに下手に気がついちゃうと「引きこもり衝動」なり「金持ちへのひがみ」なり「ジリ貧間違いなしの既得権死守」なりのいろんな感情につながっていくんだろうけど。
もう一つ言うと、いわゆる「セカイ系」ストーリー(主人公の行動がそのまま世界の命運を握るという最近人気の小説ジャンル。涼宮ハルヒシリーズもその一種)という存在も「その気になれば自分だって世の中を動かせる」という洗脳が求めるお手軽パッケージとして必要とされてるのかもしれない。「ライブドア」ストーリーもテレビ劇場見てる間にだんだん観客が自分の手で世の中動かしてる気分になるお手軽パッケージだったのかもしれない。(いつの時代もそうやって「改革」を叫ぶ人の周りに普通の人がぞろぞろ集まるわけだ)
とはいえ、そういうパッケージだけで「自分は特別だと思いたい」感情を処理するにはとても足りないような気がする。いったい皆はどうしているのだろう。誰にも言わずに素直に自分の中にため込んでるのだろうか。ちなみに私はため込んでる方ですけどね。
あなたもSOS団、作りますか?

参考

涼宮ハルヒの憂鬱 オフィシャルサイト
涼宮ハルヒ – Wikipedia
涼宮ハルヒの憂鬱とは – はてな
セカイ系 – Wikipedia
セカイ系とは – はてな

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